平定したけれども、之は表面だけのこと、謀反、反乱の流言は諸国に溢れてゐる。朝鮮遠征に心から賛成の大名などは一人もをらず、各人所領内に匪賊の横行、経済難、困《こう》じ果てゝゐる。町人百姓に至つては、大明遠征の気宇の壮、さういふものへの同感は極めて僅少で、一身一家の安穏を望む心が主であるから、不平は自ら太閤の天下久しからず、謀反が起つてくつがへる、お寺の鐘が鳴らなくなつたから謀反の起る前兆だなどゝ取沙汰してゐる。
 家康が名護屋《なごや》に向つて江戸を立つとき、殿も御渡海遊ばすか、と家臣が問ひかけると、バカ、箱根を誰が守る、不機嫌極る声で怒鳴つた。まことに然り。謀反を起す者、家康如水の徒ならんや。広大なる関八州は家康わづかの手兵を率ゐて移住を完了したばかり、土着の者すべて之北条恩顧の徒ではないか。日本各地おしなべて同じ事情で、領主の武力がわづかに土賊の蜂起を押へてゐるばかり。家康が関東へ移住と共に、施政の第一に為したことが、領内鉄砲の私有厳禁といふことであつた。
 真実遠征に賛成の大名などは一人もをらぬ。伊達政宗は相も変らず領土慾、それとなく近隣へチョッカイをだして太閤の怒りにふれ謀反の嫌疑を受けた。大いに慌てゝこの釈明を実地の働きで表すために自ら遠征の一役を買つて出て、部将の端くれに連なり、頼まれぬ大汗を流してゐる。かういふ笑止な豪傑もゐたけれども、家康も利家も氏郷も遠征そのことの無理に就て見抜くところがあつたし、国内事情の危なさに就ても太閤の如くに楽天的では有り得ない自分の領地を背負つてゐた。秀吉が名護屋にゐるうちは睨みがきくが、渡韓する、戦果はあがらぬ、火の手が日本の諸方にあがつて自分のお蔵に火がついて手を焼くハメになるのが留守番たち、一文の得にもならぬ。
 家康、利家、氏郷、交々《こもごも》秀吉の渡韓を諫める。然し、秀吉は気負つてゐるし、家康らは又、異見の根柢が遠征そのことの無理に発してゐるのであるが、之を率直に表現できぬ距りがあり、ダラ/\と一は激し、一はなだめて、夜は深更に及んだけれども、キリがない。このときであつた。襖を距てた隣室から、破鐘《われがね》のやうな声できこえよがしの独りごとを叫びはじめた奴がある。如水であつた。
「ヤレヤレ。天下の太閤、大納言ともあらう御歴々が、夜更けに御大儀、鼠泣かせの話ぢや。御存知なしとあらば、遠征軍の醜状いさゝかお洩し申さ
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