水をよぶとは、秀吉は無心であつたか知れないが、之はあくどいやり方だ。ハテ、何と言つたな、あの小僧め、憎むべき奴、首をはねて之へ持て。アヽ、あの小僧、左様ですか、承知致した。
如水は引きさがつたが、父の憲秀、之は落城のとき北条の手で殺された。然し、長男の新六郎はまだ生きて、之は厚遇を受けてゐる。何食はぬ顔、新六郎を戸外へ呼びだして、だしぬけに一刀両断、万感|交々《こもごも》到つて痛憤秀吉その人を切断寸断する心、如水は悪鬼の形相であつた。獅子心中の虫め。屍体を蹴つて首をひろひ、秀吉のもとへブラ下げて、戻つてきた。ハテナ、之は長男新六郎の首と違ふか? ハ、何事で? アッ、やつたな! チンバめ! 秀吉は膝を立てゝ、叫んだ。俺に忠義の新六郎を、貴様、ナゼ、殺した!
之はしたり。左様でしたか。如水はいさゝかも動じなかつた。冷静水の如く秀吉の顔を見返して、軽く一礼。とんだ人違ひを致して相済まぬ仕儀でござつた。あの左馬助は父の悪逆に忠孝の岐路に立ち父兄の助命を恩賞に忠義の道を尽した健気な若者、年に似合はぬ天晴な男でござる。この新六郎めは父憲秀と謀り主家を売つた裏切者、かやうな奴が生き残つてお歴々との同席、本人の面汚しはさることながら、同席の武辺者がとんだ迷惑などゝ考へてをりましたもので、殿下のお言葉、よくも承りませず、新六郎とカン違ひを致した。イヤハヤ、年甲斐もない、とんだ粗相。また、とぼけをる! チンバめ! 秀吉は叫んだが、追求はしなかつた。
チンバめ、顔をつぶして、ふてくされをる。持つて生れた狡智、戦略政策にかけて人並以上に暗からぬ奴、いさゝかの顔をつぶして、ひがむとは。秀吉は肚で笑つたが、如水は新六郎の首をはねて、いさゝか重なる鬱を散じた。家康にめぐる天運を頻りにのぞむ心が老いたる彼の悲願となつたが、その家康は、さすがに器量が大きかつた。
氏政は切腹、世子氏直は高野へ追放、この氏直は家康の娘の聟だ。一家断絶、誓約無視は信長など濫用の手で先例にとぼしからぬことではあるが、見方によれば、家康の手をもぎ爪をはぐやり方、家康のカンにひゞかぬ筈はない。けれども、家康は平気であつた。
秀吉が家康をよびよせて、北条断絶、氏直追放の旨を伝へ、氏直は貴殿の聟、まことにお気の毒だが、と言ふと、イヤイヤ、殿下、是非もないことでござる。思へば殿下の懇《ねんごろ》な招請三ヶ年、上洛に応ぜぬば
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