実子も生れたので、然るべき大々名へ養子にやりたいと考へてゐる。この気持を見抜いたのが如水で、ちやうど毛利に継嗣がないところから分家の小早川隆景を訪れ、秀秋を毛利の養子にしてはと持ちかける。隆景が弱つたのは秀秋は暗愚であり、又毛利家は他の血統を入れないことにしてゐるので、隆景はことはるわけに行かず、覚悟をかため、自分の後継者の筈であつた末弟を毛利家へ入れ、秀吉に乞ふて秀秋を自分の養子とした。如水は毛利の為を考へ太閤の子を養子にすれば行末良ろしからうと計つたわけだが、隆景は実は大いに困つたので、如水の世間師的性格がこゝに現れてゐるのである。かういふ因縁があるところへ、朝鮮後役では秀秋は太閤の名代として出陣し如水はその後見として渡海した。帰朝後秀秋はその失策により太閤の激怒を買ひ筑前五十余万石から越前十五万石へ移されたが、移るに先立つて太閤が死んだので、家康のはからひでそのまゝもとの筑前を領してゐる。
 関ヶ原の役となり元々豊臣の血統の秀秋は三成の招に応じて出陣したが、このとき如水は小倉へ走り、例の熱弁、秀秋の裏切りを約束させた。秀秋の家老平岡石見、稲葉佐渡両名も同意し、秀秋が馬関海峡を渡るに先立ちすでに関ヶ原の運命は定まつたもので、如水は直ちに家人神吉清兵衛を関東へ走らせて金吾秀秋の内通を報告させた。如水黒幕の暗躍により関ヶ原の大事はほゞ決したのだが、これは後日の話。
 さて三成は佐和山へ引退する。大乱これより起るべし。如水は忽ちかく観じて、長政に全軍をさづけ、大事起らばためらうことなく家康に附して存分の働きを怠るなと言ひ含め、お膳立はできたと九州中津へ引上げる。けれども秘密の早船を仕立て、大坂、備後《びんご》鞆《とも》、周防《すおう》上《かみ》の関《せき》の三ヶ所に備へを設け、京坂の風雲は三日の後に如水の耳にとゞく仕組み。用意はできた。かくて彼は中津に於て、碁を打ち、茶をたて、歌をよみ、悠々大乱起るの日を待つてゐる。

       三

 そのとき如水は城下の商人伊予屋弥右衛門の家へ遊びにでかけ御馳走になつてゐた。そこへ大坂留守居栗山四郎右衛門からの密使野間源兵衛が駈けつけて封書を手渡す。三成、行長、恵瓊の三名主謀して毛利浮田島津らを語らひ家康討伐の準備とゝのへる趣き、上方の人心ために恟々《きょうきょう》たり、とある。如水は一読、面色にはかに凜然、左右をかへりみて高
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