二十七歳
坂口安吾

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)大々《ふてぶて》しさ

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二三|米《メートル》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)わざ/\
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 魂や情熱を嘲笑ふことは非常に容易なことなので、私はこの年代に就て回想するのに幾たび迷つたか知れない。私は今も嘲笑ふであらうか。私は讃美するかも知れぬ。いづれも虚偽でありながら、真実でもありうることが分るので、私はひどく馬鹿々々しい。
 この戦争中に矢田津世子が死んだ。私は死亡通知の一枚のハガキを握つて、二三分間、一筋か二筋の涙といふものを、ながした。そのときはもう日本の負けることは明らかな時で、いづれ本土は戦場となり、私も死に、日本の男はあらまし死に、女だけが残つて、殺気立つた兵隊たちのオモチャになつて殺されたり可愛がられたりするのだらうと考へてゐたので、私は重荷を下したやうにホッとした気持があつた。
 つまり私はそのときも尚、矢田津世子にはミレンがあつたが、矢田津世子も亦、さうであつたと思ふ。
 私は大井広介にたのまれて、戦争中、「現代文学」といふ雑誌の同人になつた。そのとき野口冨士男が編輯に当つて、私たちには独断で矢田津世子に原稿をたのんだ。その雑誌を見て、私はひどく腹を立てた。まるで私が野口冨士男をそゝのかして矢田さんに原稿をたのませたやうに思はれるからであつた。果して井上友一郎がさうカン違ひをして、編輯者の権威いづこにありやと云つて大井広介にネヂこんできたさうであるが、井上がさう思ふのは無理もなく、それだけに、矢田津世子が、より以上に、さう思ひこむに相違ないので、私の怒りは、ひどかつたのだ。
 けれども、そのとき、野口冨士男の話に、矢田さんが、原稿を郵送せずに、野口の家へとゞけに来たといふ、矢田さんは美人ですねといふ野口の話をきゝながら、私はいさゝか断腸の思ひでもあつた。
 まだ私たちが初めて知りあひ、恋らしいものをして、一日会はずにゐると息絶えるやうな幼稚な情熱のなかで暮してゐた頃、私たちは子供ではない、と矢田津世子が吐きすてるやうに云つた。それは愛慾に就て子供ではないといふ意味ではなく、私たちは大島敬司といふ男にだまされて変な雑誌に関係してゐたので、大島に対する怒りの言葉であつたが、私は変にその言葉を忘れることができない。
 あなたは大人であつたのか。私は? 私は馬鹿々々しいのだ。何よりも、魂と、情熱の尤もらしい顔つきが、せつなく、馬鹿々々しくて仕方がないのだ。その馬鹿らしさは、私以上に、あなたが知つてゐたやうな気がする。そのくせ、あなたは、郵便で送らずに、野口の家へわざ/\原稿をとゞけるやうな芸当ができるのだが、それを女の太々《ふてぶて》しさと云つてよいのだか、悲しさといふのだか、それまでを、馬鹿々々しいと言ひ切る自信が私にはないので、私は尚さら、せつないのだ。
 その頃から、あなたは病臥したらしい。そして、あなたが死んで、ハガキ一枚の通知になるまで、私はあなたが、肺病でねてゐることすら知らなかつた。
 私の母は私とあなたが結婚するものだと思ひこみ信じてゐたが、ぐうたらな私に思ひを残して、死んでゐた。あなたのお母さんは生きてゐたのだ。あなたの死亡通知の中には、生きてゐるアカシの、お母さんの名があつたから。矢田チヱといふ、私は名すら忘れてはゐない。私の母以上に、私たちの結婚をのぞんでゐた筈であつた。私があなたの家で御馳走になり酔つ払ふのを目を細くして喜んでゐるお母さんであつた。際限もなく私に話しかけるお母さん。けれども、その言葉は、あなたの通訳なしには、私には殆ど分らなかつた。ひどい秋田弁なのだから。
 死亡通知は印刷したハガキにすぎなかつたが、矢田チヱといふ、生きてゐるお母さんの名前は私には切なかつた。そして、その印刷した文字には「幸うすく」津世子は死んだと知らせてあつた。「幸うすく」、あなたは、必ずしも、さうは思つてゐないだらうと私は思ふ。人の世の、生きることの、馬鹿々々しさを、あなたは知らぬ筈はない。
 けれども、あなたのお母さんは「幸うすく」さう信じてゐるに相違なく、その怒りと咒ひが、一人の私に向けられてゐるやうな気がした。そして、私は泣いた。二三分。一筋か二筋の、うすい涙であつた。そして私が涙の中で考へた唯一のことは、ある暗黒の死の国で、あなたと私の母が話をして、あなたが私の母を自分の母のやうに大事にしてくれてゐる風景であつた。そして、私は、泣いたのだ。
 私は、この尤もらしい顔附が切ない。かう書いてしまふと、これだけの尤もらしさになつてしまふ、表現のみじめさが切なく、馬鹿々々しいのだ。さうかと云つて、さうであるまいとすると、私はてんから、情熱と魂を嘲笑してしまふやうな気がする。私は果して書きうるのか。

          ★

 私はそのとき二十七であつた。私は新進作家とよばれ、そのころ、全く、馬鹿げた、良い気な生活に明けくれてゐた。
 当時の文壇は大家中堅クツワをならべ、世は不況のドン底時代で、雑誌の数が少く、原稿料を払ふ雑誌などいくつもないから、新人のでる余地がない。さういふ時代に、ともかく新進作家となつた私は、ところが、生れて三ツほど小説を書いたばかり、私は誘はれて同人雑誌にはいりはしたが、どうせ生涯落伍者だと思つてをり、モリエールだのボルテールだの、そんなものばかり読んでをり、自分で何を書かねばならぬか、文学者たる根柢的な意欲すらなかつた。私はたゞ文章が巧かつたので、先輩諸家に買ひかぶられて、唐突に、新進作家といふことになつてしまつたまでであつた。
 私は同人雑誌に「風博士」といふ小説を書いた。散文のファルスで、私はポオの X'ing Paragraph とか Bon Bon などといふ馬鹿バナシを愛読してゐたから、俺も一つ書いてやらうと思つたまでの話で、かういふ馬鹿バナシはボードレエルの訳したポオの仏訳の中にも除外されてゐる程だから、まして一般に通用する筈はない。私は始めから諦めてゐた。たゞ、ボードレエルへの抗議のつもりで、ポオを訳しながら、この種のファルスを除外して、アッシャア家の没落などを大事にしてゐるボードレエルの鑑賞眼をひそかに皮肉る快で満足してゐた。それは当時の私の文学精神で、私は自ら落伍者の文学を信じてゐたのであつた。
 私は然し自信はなかつた。ない筈だ。根柢がないのだ。文章があるだけ。その文章もうぬぼれる程のものではないので、こんなチャチな小説で、ほめられたり、一躍新進作家にならうなどと夢にも思つてゐなかつた。
 そのころ雑誌の同人六七人集つて下落合の誰かの家で徹夜して、当時私たちは酒を飲まなかつたから、ジャガ芋をふかして塩をつけて食ひながら文学論で徹夜した。その夜明け、高橋幸一(今は鎌倉文庫の校正部長)が食ふ物を買ひに外出して、ついでに文藝春秋を立読みして、牧野信一が「風博士」といふ一文を書いて、私を激賞してゐるのを見出したのである。
 人間のウヌボレぐらゐタヨリないものはない。私はその時以来、昨日までの自信のないのは忘れてしまつて、ほめられるのは当り前だと思つてゐた。そのとき二十六だつた。七月頃であつた。そしてその月に文藝春秋へ小説を書かされ、それ以来、新進作家で、私の軽率なウヌボレは二十七の年齢にも、つゞいてゐた。そのころ、春陽堂から「文科」といふ半職業的な同人雑誌がでた。牧野信一が親分格で、小林秀雄、嘉村礒多、河上徹太郎、中島健蔵、私などが同人で、原稿料は一枚五十銭ぐらゐであつたと思ふ。五十銭の原稿料でも、原稿料のでる雑誌などは、大いに珍らしかつたほど、不景気な時代であつた。五冊ほどで、つぶれた。私は「竹藪の家」といふのを連載した。
 この同人が行きつけの酒場があつた。ウヰンザアといふ店で、青山二郎が店内装飾をしたゆかりで、青山二郎は「文科」の表紙を書き、同人のやうなものでもあつたせゐらしい。青山二郎は身代を飲みつぶす直前で、彼だけはシャンパンを飲みあかしたり、大いに景気がよかつたが、他の我々は大いに貧乏であつた。私は牧野信一、河上徹太郎、中島健蔵と飲むことが多く、昔の同人雑誌の人達とも連立つて飲むことが多かつた。私が酒を飲みだしたのは牧野信一と知つてからで、私の処女作は「木枯の酒倉から」といふノンダクレの手記だけれども、実は当時は一滴も酒をのまなかつたのである。改造の西田義郎も当時の飲み仲間であるが、私はこの酒場で中原中也と知り合つた。
 ある夜更け、河上と私がこの店の二人の女給をつれて、飲み歩き、河上の家へ泊つたことがある。河上は下心があつたので、女の一人をつれて別室へ去つたが、残された私は大いに迷惑した。なぜなら、実は私も河上の連れ去つた娘の方にオボシメシがあつたからで、残された女は好きではない。オボシメシと云つても、二人のうちならそつちが好きといふだけのことではあるが、当時私はウブだから、残された女が寝ませうよと言ふけれどもその気にならない。そのうちに河上が、すんだかい、と言つて顔をだした。彼は娘にフラレたのである。俺はフラレた、と言つて、てれて笑ひながら、娘と手をくんで、戻つてきた。この娘は十七であつた。
 その翌朝、河上の奥さんが憤然と、牛乳とパンを捧げて持つてきてくれたが、シラフで別れるわけにも行かず、四人で朝からどこかで飲んで別れたのだが、そのとき、実は俺はお前の方が好きなんだと十七の娘に言つたら、私もよ、と云つて、だらしなく仲がよくなつてしまつたのである。
 この娘はひどい酒飲みだつた。私がこんなに惚れられたのは珍らしい。八百屋お七の年齢だから、惚れ方が無茶だ。私達はあつちのホテル、こつちの旅館、私の家にまで、泊り歩いた。泊りに行かうよ、連れて行つてよ、と言ひだすのは必ず娘の方なので、私たちは友達のカンコの声に送られて出発するのであるが、私とこの娘とは肉体の交渉はない。娘は肉体に就て全然知識がないのであつた。
 私は処女ではないのよ、と娘は言ふ。そのくせ処女とは如何なるものか、この娘は知らなかつた。愛人、夫婦は、たゞ接吻し、同じ寝床で、抱きあひ、抱きしめ、たゞ、さう信じ、その感動で、娘は至高に陶酔した。肉体の交渉を強烈に拒んで、なぜそんなことをするのよ、と憤然として怒る。まつたく知らないのだ。
 そのくせ、たゞ、単に、いつまでも抱きあつてゐたがり、泊りに行きたがり、私が酒場へ顔を見せぬと、さそひに来て、娘は私を思ふあまり、神経衰弱の気味であつた。よろよろして、きりもなく何か口走り、私はいくらか気味が悪くなつたものだ。肉体を拒むから私が馬鹿らしがつて泊りに行かなくなつたことを、娘は理解しなかつた。
 中原中也はこの娘にいさゝかオボシメシを持つてゐた。そのときまで、私は中也を全然知らなかつたのだが、彼の方は娘が私に惚れたかどによつて大いに私を咒つてをり、ある日、私が友達と飲んでゐると、ヤイ、アンゴと叫んで、私にとびかゝつた。
 とびかゝつたとはいふものの、実は二三|米《メートル》離れてをり、彼は髪ふりみだしてピストンの連続、ストレート、アッパーカット、スヰング、フック、息をきらして影に向つて乱闘してゐる。中也はたぶん本当に私と渡り合つてゐるつもりでゐたのだらう。私がゲラ/\笑ひだしたものだから、キョトンと手をたれて、不思議な目で私を見つめてゐる。こつちへ来て、一緒に飲まないか、とさそふと、キサマはエレイ奴だ、キサマはドイツのヘゲモニーだと、変なことを呟きながら割りこんできて、友達になつた。非常に親密な友達になり、最も中也と飲み歩くやうになつたが、その後中也は娘のことなど嫉く色すらも見せず、要するに彼は娘に惚れてゐたのではなく、私と友達になりたがつてゐたのであり、娘に惚れて私を憎んでゐるやうな形になりたがつてゐたゞけの話であらうと思ふ。
 オイ、お前は一週に何度女にありつくか。オレは二度しかありつけない。二日に一度はありつきたい。貧乏は切ない、と言つて中也は常に嘆いてをり
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