Aその女にありつくために、フランス語個人教授の大看板をかゝげたり、けれども弟子はたつた一人、四円だか五円だかの月謝で、月謝を貰ふと一緒に飲みに行つて足がでるので嘆いてをり、三百枚の飜訳料がたつた三十円で嘆いてをり、常に嘆いてゐた。彼は酒を飲む時は、どんなに酔つても必ず何本飲んだか覚えてをり、それはつまり、飲んだあとで遊びに行く金をチョッキリ残すためで、私が有金みんな飲んでしまふと、アンゴ、キサマは何といふムダな飲み方をするのかと言つて、怒つたり、恨んだりするのである。あげくに、お人好しの中島健蔵などへ、ヤイ金をかせ、と脅迫に行くから、健蔵は中也を見ると逃げだす始末であつた。
その年の春、私は一ヶ月あまり京都へ旅行した。河上の紹介で、そのころまだ京大の学生だつた大岡昇平が自分の下宿へ部屋を用意しておいてくれたが、そのとき加藤英倫と友達になつた。彼は毎晩、私を京都の飲み屋へ案内してくれて、一週間ほど神戸へも一緒に旅行した。加藤英倫も京大生で、スエデン人の母を持つアイノコで、端麗な美貌であるから、京都も神戸も女友達ばかり、黒田孝子といふ女流画家の可愛い女に惚れられてをり、この人は非常に美人であつたが、英倫はさのみこの人を好んでゐるやうでもなく、神戸の何とかいふ、実にまづい顔の、ガサツ千万な娘になんとなく惚れるやうな素振りであつた。外見だけであつたかも知れぬ。彼はセンチメンタル・トミーであつた。
これは蛇足だが、この神戸の旅行で、私はヘルマンの廃屋とかいふ深山の中腹の五階建かの大洋館へ案内された。ヘルマン氏は元来マドロスか何かで、貧乏なのんだくれであつたが、兄が大金満家で、これが死に、遺産がころがりこんで一躍大金持になつたのださうで、そこでこゝに大邸宅をつくり、五階の上に塔をたて、この塔の中に探照燈を据ゑつけ、自分の汽車が西の宮駅へつくと、山の中腹の塔の上から探照燈をてらす。ヘルマン氏光の中へ現はれ、光の中なる自動車に乗る。この自動車が邸宅へはいるまで、自動車と共に探照燈の光が山を動いて行くのださうで、この探照燈は私が行つたとき、まだ廃屋の塔の中にそのまゝ置かれてゐた。軍艦などの探照燈と全く同じ大袈裟な物々しい物であつた。
もう一つ、ブッタマゲルのはヘルマン先生の酒倉だ。庭の中の山の中腹へ横穴をあけて、当時の金で八万円の洋酒をとりよせ、穴の中へつめこんだ。驚くべき大穴倉だが、実に驚くべき洋酒の山で、私が行つたときも、ギッシリアキビンの山がつまつてゐたが、奥には本物もあつたかも知れぬ。そこでヘルマン先生は、かねて飲み仲間の親友マドロスに隣地へ小意気なバンガローをたてゝやり、二人でひねもす、よもすがら、飲んでゐたさうで、ヘルマン先生なりふり構はず、ボロ服に、貧乏時代からのマドロスパイプをくはへたまゝ、酒の外には余念がなかつたさうである。
独探のケンギを受けて、大正五年だかに国外退去を命じられたといふ。無実のケンギで、探照燈がたゝつて怪しまれたといふ話であつたが、快男子を無益に苦しめたものである。飲み仲間のゐたバンガローに当時は日本人の老画家が住んでゐて、廃屋廃園に、私達を案内してくれ、ヘルマン氏の思ひ出をきかせてくれたのであつた。廃屋は各階毎に寝室があり、寝室にはバスルームがつき、要するにヘルマン氏は、その日の気分によつて、何階かで下界の海を眺めて酒をのみ、酔ひつぶれて、バスにつかつて、寝てしまふ万全の構へがとゝのへられてゐるわけだ。女なんか目もくれなかつたといふから、私はとても及ばぬ。これには私も、ブッタマゲた。
矢田津世子は加藤英倫の友達であつた。私は東京へ帰つてきた。加藤英倫も東京へ来た。たぶん彼の夏休みではなかつたのか。私には、もはや時日も季節も分らない。とにかく、私と英倫とほかに誰かとウヰンザアで飲んでゐた。そのとき、矢田津世子が男の人と連れだつて、ウヰンザアへやつてきた。英倫が紹介した。それから二三日後、英倫と矢田津世子が連れだつて私の家へ遊びにきた。それが私達の知り合つた始まりであつた。
★
さて、私は愈々語らなければならなくなつてきた。私は何を語り、何を隠すべきであらうか。私は、なぜ、語らなければならないのか。
私は戦争中に自伝めく回想を年代記的に書きだした。戦争中は「二十一」といふのを一つ書いたゞけで、発表する雑誌もなくなつてしまつたのだが、私がこの年代記を書きだした眼目は二十七、それから三十であつた。つまり、矢田津世子に就てゞあつた。
私は果して、それが書きうるかどうか、その時から少からず疑つてゐた。たゞ、私は、矢田津世子に就て書くことによつて、何物かゞ書かれ、何物かゞ明らかにされる。私はそれを信じることができたから、私はいつか、書きうるやうにならなければいけないのだと考へてゐたのであつた。
始めからハッキリ言つてしまふと、私たちは最後まで肉体の交渉はなかつた。然し、メチルドを思ふスタンダールのやうな純一な思ひは私にはない。私はたゞ、どうしても、肉体にふれる勇気がなかつた。接吻したことすら、恋し合ふやうになつて、五年目の三十一の冬の夜にたゞ一度。彼女の顔は死のやうに蒼ざめてをり、私たちの間には、冬よりも冷めたいものが立ちはだかつてゐるやうで、私はたゞ苦しみの外なにもなかつた。たかゞ肉体ではないか、私は思つたが、又、肉体はどこにでもあるのだから、この肉体だけは別にして、といふ心の叫びをどうすることもできなかつた。
そして、その接吻の夜、私は別れると、夜ふけの私の部屋で、矢田津世子へ絶交の手紙を書いたのだ。もう会ひたくない、私はあなたの肉体が怖ろしくなつたから、そして、私自身の肉体が厭になつたから、と。そのときは、それが本当の気持であつたのかも知れぬ。その時以来、私は矢田津世子に会はないのだ。彼女は死んだ。そして私はおくやみにも、墓参にも行きはしない。
その後、私は、まるで彼女の肉体に復讐する鬼のやうであつた。私は彼女の肉体をはづかしめるために小説を書いてゐるのかと疑らねばならないことが幾度かあつた。私は筆を投げて、顔を掩うたこともある。
私は戦争中、ある人妻と遊んでゐた。その良人は戦死してゐた。この女の肉体は、最も微妙な肉体で、さういふ肉体の所有者らしく、貞操観は何もなく、遊ぶ以外に目的はないやうだつた。
この女は常にはたゞニヤ/\してゐるばかりの凡そだらしない、はりあひのない女であつたが、遊びの時の奔騰する情熱はまるで神秘な気合のこめられた妖精であつた。別の人間としか思はれない。
然し、淫楽は、この特別な肉体によつてすらも、人の心はみたされはせぬ。私が矢田津世子の肉体を知らないことに満ち足りる思ひを感じるやうになつたのは、そのときからで、それは又、あたかも彼女の死のあとだから、無の清潔が私を安らかにもしてくれた。
魅力のこもつた肉体は、わびしいものだ。私はその後、娼婦あがりの全く肉体の感動を知らない女と知ると、微妙な女の肉体とあひびきするのが、気がすゝまぬやうになつてゐた。
娼婦あがりの感動を知らない肉体は、妙に清潔であつた。私は始め無感動が物足りないと思つたのだが、だん/\さうではなくなつて、遊びの途中に私自身もふとボンヤリして、物思ひに耽ることがあつたり、ふと気がついて女を見ると、私の目もさうであるに相違ないのだが、憎むやうな目をしてゐる。憎んでゐるのでもないのだけれども、他人、無関心、さういふものが、二人といふツナガリ自体に重なり合つた目であつた。
「憎んでゐる?」
女はたゞモノうげに首をふつたり、時には全然返事をせず、目をそらしたり、首をそらしたりする。それを見てゐること自体が、まるで私はなつかしいやうな気持であつた。遊び自体がまつたく無関心であり、他人であること、それは静寂で、澄んでゐて、騒音のない感じであつた。
そして私は矢田津世子の肉体を知らないことを喜んだ。その肉体は、この二人の女ほど微妙な魅力もこもつてをらず、静寂で、無関心である筈はない。私にとつて、女体の不完全な騒音は、助平根性をのぞけば、侘しくなるばかりだから。淫楽は悲しい。否、淫楽自体が悲しいのではなく、我々の知識が悲しい。
私は先ほどスタンダールのメチルドのことにふれたが、あれはどうも、ひどい誇張で、本心であるとは思はれない。私にとつて、矢田津世子はもはや特別な女ではなく、私は今に、もつとバカげた、犬のやうな惚れ方を、どこかの女にするやうな予感がつきまとつてゐる。そのくせ私は、惚れることには、ひどく退屈してゐるのだが。
★
英倫と一緒に遊びに来た矢田津世子は私の家へ本を忘れて行つた。ヴァレリイ・ラルボオの何とかいふ飜訳本であつた。私はそれが、その本をとゞけるために、遊びに来いといふ謎ではないか、と疑つた。私は置き残された一冊の本のおかげで、頭のシンがしびれるぐらゐ、思ひ耽らねばならなかつた。なぜなら私はその日から、恋の虫につかれたのだから。私は一冊の本の中の矢田津世子の心に話しかけた。遊びにこいといふのですか。さう信じていゝのですか。
然し、決断がつかないうちに、手紙がきた。本のことにはふれてをらず、たゞ遊びに来てくれるやうにといふ文面であつたが、私達が突然親しくなるには家庭の事情もあり、新潟鉄工所の社長であつたSといふ家が矢田家と親戚であり、S家と私の新潟の生家は同じ町内で、親たちも親しく往来してをり、私も子供の頃は屡々《しばしば》遊びに行つたものだつた。私の母が矢田さんを親愛したのも、そのつながりがあるせゐであり、矢田さんの母が私を愛してくれたのも、第一には、そのせゐだつた。私は遊びに行つた始めての日、母と娘にかこまれ、家族の一人のやうな食卓で、酒を飲まされて寛《くつろ》いでゐた。
その日、帰宅した私は、喜びのために、もはや、まつたく、一睡もできなかつた。私はその苦痛に驚いた。ねむらぬ夜が白々と明けてくる。その夜明けが、私の目には、狂気のやうに映り、私の頭は割れ裂けさうで、そして夜明けが割れ裂けさうであつた。
この得恋の苦しみ(まだ得恋には至らなかつたが、私にとつてはすでに得恋の歓喜であつた)は、私の始めての経験だから、これは私の初恋であつたに相違ない。然し、この得恋の苦しみ、つまり恋を得たゝめに幾度かゞ眠り得なかつた苦しみは、その後も、別の女の幾人かに、経験し、先ほどの二人の女のいづれにも、その肉体を始めて得た日、そして幾夜か、睡り得ぬ狂気の夜々があつた。得恋は失恋と同じ苦痛と不安と狂気にみちてゐる。失恋と同じ嫉妬にすら満ちてゐる。すると、その翌日は手紙が来た。私はその嬉しさに、再び、ねむることができなかつた。
そのころ「桜」といふ雑誌がでることになつた。大島といふインチキ千万な男がもくろんだ仕事で、井上友一郎、菱山修三、田村泰次郎、死んだ河田誠一、真杉静枝などが同人で、矢田津世子も加はり、矢田津世子から、私に加入をすゝめてきた。私は非常に不快で、加入するのが厭だつたが、矢田津世子に、あなたはなぜこんな不純な雑誌に加入したのですか、ときくと、あなたと会ふことができるから、と言ふ。私は夢の如くに、幸福だつた。私は二ツ返事で加入した。
私たちは屡々会つた。三日に一度は手紙がつき、私も書いた。会つてゐるときだけが幸福だつた。顔を見てゐるだけで、みちたりてゐた。別れると、別れた瞬間から苦痛であつた。
「桜」はインチキな雑誌であつたが、井上、田村、河田はいづれも善意にみちた人達で、(菱山は私がたのんで加入してもらつたのだ)私は特に河田には気質的にひどく親愛を感じてゐたが、彼は肺病で、才能の開花のきざしを見せたゞけで夭折したのは残念だつた。彼はすぐれた詩人であつた。
インチキな雑誌であつたが、時事新報が大いに後援してくれたのは、編輯者の寅さんの好意と、これから述べる次の理由によるせゐだと思はれる。
ある日、酔つ払つた寅さんが、私たちに話をした。時事の編輯局長だか総務局長だか、ともかく最高幹部のWが矢田津世子と恋仲で、ある日、社内で
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