ゥける人影に、とつぜん胸がしめつけられ、息がつまつて、立ちすくむ。隣の男女の話声の、よくきけば凡そ似つかぬ女の声が、始めてきこえた一瞬だけは矢田津世子の声にきこえてしまふ。
私は女給と泊り歩いてゐる私が、矢田津世子への復讐であるやうな心はミヂンもなかつた。私は今、すぐこの足で、矢田津世子を訪ねて、結婚しませう、と言へば、結婚することもできるのだつた。それは疑ふべからざることで、そのことだけでは、一とかけの疑念も不安もなかつたのだ。もとより、憎む時間はあつた。然し、私があの人の影におびえて立ちすくむとき、私自身の恐怖の中には、あの人に苦痛と恥辱を与へたくない思ひやりが常にこめられてゐたのだ。
同時に私はWを憎んでもゐなかつた。矢田津世子とW。矢田津世子と私。私の心には、この二つを対比し、対立させる考へ方が欠けてゐるか、或ひは非常に稀薄であつた。矢田津世子とW。私はそれを考へる。最も多く考へた。然し、矢田津世子と私、といふ立場に対立させて考へてはゐなかつた。つまり、同一線上に二つを並べてゐなかつたのだ。
私が矢田津世子と結婚する。すると、むしろ、私達は、彼女とWにハッキリ対立してしまふ。結婚すれば、私は勝ちうる。果して、勝ちうるであらうか。私はむしろ、対立と、自分の低さ、位置の低さを自覚するばかりではないか。
私は然し、そのやうに考へてゐたわけではない。そのやうに考へることの必要が、必要すらも、欠けてゐたのだ。即ち、私は、すでに結婚を諦めてゐた。時に軽率な情念のそれをめぐつて動くことをとめる術はないけれども、より深い、恐らく心意の奥底で、大いなる諦めを結んでゐた。不動盤石の澱みの姿に根を張つた石に似た雲のやうな諦念がある。それは一人の愛する女を諦めてゐるばかりではなかつた。より大いなるものを諦めてゐた。より大いなる物とは? それは私には、分らない。たゞ、何物か、であるだけだつた。そして、その大いなる何物かの重い澱みの片隅に、一人の女がゐるだけのことであつた。
私はむしろ、この明るいオッチョコチョイの女給をつれて、矢田津世子が一緒に行かうと云つた山々、上高地や奥白根の温泉宿へ行つてみればよかつたと思つた。なぜであるかは分らない。それはどうでもよいことだ。私はたゞ、私をそこへ誘つた矢田津世子は、だから、たぶん、ほかの男とはそこへ行きはしないだらうと、ふと考へた。然し、又、だから、たぶん、あるひは今ごろ、そこにゐるのではないかと、とも考へた。とりとめもなく、ふと、思ふ。私は山を歩いてゐる。穂高を、槍を、赤石を。すると、私のつれてゐる女は、矢田津世子だつた。そして私は、ものうい昼の湯の宿の物思ひから、我にかへる。私の女が、ひとりで喋り、ひとりでハシャいでゐるときにも、私はそれをきいたり見たりしてゐるやうな笑ひ顔で、ふと物思ひに落ちこんでゐた。
「あなたは奥さんないの? アラ、うそ。あるでせう」と、女がきく。
「あるよ」
「お子さんは」
「一人だけ」
「あなたの奥さんは、とても美人よ。私、わかるわ。ツンとした、とても凄い美人なのよ」
「どうして、分る」
「ほら、当つたでせう。私の経験なのよ。私みたいな変チクリンなお多福を可愛がる人の奥さんは、御美人よ。私、何人も、その奥さんの顔を見てやつたわ。美人女給を口説く人の奥さんは、みんな、ダメ。でもね、私を可愛がる人は、特別優秀なのよ。なぜだらうな。よつぽど私が、できそこなひなのかしら」然し、女は、どことなく可愛い顔立ちだつた。それに、姿がスラリとして、色気があつた。心が無邪気であるやうに、全身に、無邪気な翳がゆれてゐた。二十三とか四であつたが、十七八の小娘のやうなところがあつた。全裸になつて体操するのが大好きで、ひとり余念もなく、大らかで、たのしげで、だから清潔で、温泉の湯ぶねの中でも、のびたり、ちゞんだり、桶をマリか風センにして遊んでゐたり、いつも動いてゐるのだ。男に裸体を見せることを羞しがらず、腕や腹や股に墨筆で絵を書かせてキャア/\よろこび、だからむしろ心をそゝる色情は稀薄であつた。マネキンになりたいけれども、シャンぢやないからダメなんだ、とこぼしてゐたが、私はそのとき、なるほどこれは天来のマネキンとでもいふのだらうなと思つたほど、常に動きが、そして言葉が、生き/\としてゐた。あれは、どこの宿であつたか。もう旅の終りで、あの日は沼津で映画だか芝居だか見て、私はそれを見ながら二合瓶をラッパのみにして、いくらか酔つてゐたのだが、それから長岡だかその隣りの温泉だかへ泊つたときであつたと思ふ。女はいくらかシンミりして、
「ねえ、まだ、東京へ帰るのは厭だな。もう一週間ばかり、つきあはない。私、このへんの酒場で女給になつて、稼ぐから」
「チップで宿銭が払へるものか」
「あゝ、さうか」女はひどく
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