Kッカリした。もとより、それは気まぐれだつた。気まぐれ千万な女なのだ。私を愛してゐるせゐなどでは毛頭ない。然し、気まぐれながら、いくらかシンミリしてゐるので、それが珍らしいことだづたから、私は今も何か侘しさを思ひだす。私はその後、よく旅先の宿屋の部屋の孤愁の中で、このときの女のことを思ひだしたものだつた。
「このくらゐ遊んで帰ると、私だつて、ちよつと、ぐあひが悪いのよ。あとは野となれ、山となれ、か。あなたの奥さん、さぞ怒つてゐるだらうな。ねえ、マダム、怖い?」女の顔はいつもと違つて、まじめであつた。
「もう十日、もうひと月、ねえ、私、このへんで稼いで、一緒にゐたいな。あなたのマダムをうんと怒らしてやりたいのよ。私、どこかのマダムを二三人、殺してやりたいわ。厭になつちまふな」と言つた。そして笑つた。それはもう、いつもの通りの女であつた。シンからお人好しの女でも、そんな残酷な気持があるのかな、と、私は面白かつた。顔も知らない対象にまで嫉妬だか癇癪だか起してゐる、そのくせ、はつきりした対象にはむしろ嫉妬を起しさうもない女であつた。
私はそのとき、矢田津世子は死んでくれゝば一番よいのだ、といふことをハッキリ気附いた。そして、そんなことを祈つてゐる私の心の低さ、卑しさ、あはれさ、私はうんざりしてゐた。まつたく一と思ひに、この女とこのへんの土地で、しばらく住んでみようかと、女には何喰はぬ顔で、思ひめぐらしたほどであつた。
★
私の心の何物か、大いなる諦め。その暗い泥のやうな広い澱みは、いはゞ、一つの疲れのやうなものであつた。その大いなる澱みの中では、矢田津世子は、たしかに片隅の一ときれの小さな影にすぎなかつたが、その澱みの暗い厚さを深めたもの、大きな疲れを与へたものは、あるひは、矢田津世子であるかも知れぬと考へる。
私はそのころから、有名な作家などにはならなくともよい、どうにとなれ、と考へた。元々私は、文学の始めから、落伍者の文学を考へてゐた。それは青年の、むしろ気鋭な衒気《げんき》ですらあつたけれども、やつぱり、虚無的なものではあつた。私は然し、再びそこへ戻つたのではなかつたやうだ。私の心に、気鋭なもの、一つの支柱、何か、ハリアヒが失はれてゐた。私はやぶれかぶれになつた。あらゆる生き方に、文学に。そして私の魂の転落が、このときから、始まる。
私はもう、矢田津世子に会はなかつた。まる三年後、矢田津世子が、私を訪ねて、現はれるまで。
底本:「坂口安吾全集 05」筑摩書房
1998(平成10)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「新潮 第四四巻第三号」
1947(昭和22)年3月1日発行
初出:「新潮 第四四巻第三号」
1947(昭和22)年3月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2009年4月20日作成
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