ィ金は私が持つてゐるから、と言ふ。暮れがたであつた。私は仕事があつて今夜は酒がのめないからと嘘をつき、ともかく、そのへんまで送らうと一緒に歩くと、女は憑かれたやうにとりとめもなく口走り、せつなげな笑ひが仮面のやうにその顔にはりついてゐる。そのうちに、ふと、知つてるわ、矢田さんに惚れたんでせう、と言つた。恨む声ではなかつた。せつなげな笑ひが、まだ、はりついてゐた。気象の激しい娘であつた。モナミだか千疋屋だかで、テーブルの上のガラスの瓶をこはしたことがある。ボーイがきて、六円いたゞきます、と言ふ。娘は十二円ボーイに渡して、隣のテーブルの花瓶をとると、エイと土間に叩きつけて、ミヂンにわつて、サヨナラと出てきた。さういふ気象を知つてゐる私であるから、私に対する娘のあまりのか弱さに、私は暗然たる思ひもあつた。
「片思ひなの?」
娘は私の顔をのぞいた。それは、優しい心によつて語られた、愛情にみちた言葉であつた。恨む心はミヂンもなく、いたはる心だけなのだ。私は答へる言葉もなく、答へたい心もなかつた。
このへんで別れようと私が言ふと、ウン、娘はうなづいて、私の手を握り、まだつゞいてゐるあの切なげな笑ひで、仕事がすんだら、又、のまうよね、さう言つて、娘は手をふり、素直に闇の底へ消えてしまつた。これが娘と私との最後の別れであつた。
私も、亦、矢田津世子を恨む心はなかつた。なじる心もなかつた。矢田津世子は、私に向ひ、一緒に旅行しませうよ、登山したい、山の温泉へ泊りたい、と言ふ。私はたゞ笑ひ顔によつて答へ得るだけだ。その笑ひ顔は、私の心はあなたのことで一ぱいだ、いつもあなたを思ひつゞけてゐる、然し、私はあなたと旅行はできない。旅行して、あなたの肉体を知ると、私はWと同じ男に成り下るやうな気がするから。あなたにとつて、私が成り下るのではなく、私自身にとつて、Wが私と同格になるから。私はあなたに就いて、Wのことなど信じたくないのだ。それを忘れてしまひたい。それを知らずにあなたを恋したあのまゝの心を、私は忘れたくないのだ、と。もとより私の笑ひ顔がそのやうな意味であることを、矢田津世子が解きうる由もない。
河田誠一が矢田津世子を訪ねたのも、その頃だ。なぜ坂口と結婚しないか、それをすゝめるために。その話を、私は河田から告げられず、矢田津世子から、きかされたのだ。
その知らせには、たしかに意
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