オた言葉があつた。私はその言葉を忘れたが、それは恋人に対してのみ用ひる種類の甘つたるい言葉であつた。
 校正の日、同人全部印刷所へつめてゐたが、まさしくその日は日曜であり、矢田津世子のみ、真杉静枝か河田かに校正をたのみ、姿を見せてゐなかつた。その日曜が矢田津世子にどういふ日かは、あらゆる同人が知つてゐたのだ。
 座談会の例の一言に、河田だか、田村だか、井上だか、ふきだして、これは凄いね、このまゝケヅらず載せたものかね、と見廻すと、真杉静枝が間髪を容れず、ケヅることないわ、ホントにさう言つたのですもの、と叫んだ。それは低いが、強烈な語気で、私はその後ずゐぶん真杉さんとはおつきあひしたが、このやうな激しい語気はほかにきいたことがない。深い憎しみが、こめられてゐた。
 私は然し、わが身の如くに、切なかつたのだ。私が憎まれてゐるが如くに。私は矢田津世子をあはれみ、真杉静枝をむしろ咒つた。同時に真杉静枝に内心深く感謝したのは、私も切に、この言葉のケヅられざらんことを乞ひ、祈つてゐたから。
 その一言は、私にとつては、絶望の中の灯であつたのだ。悲しい願ひがあるものだ。この一言が地上に形をとゞめて残つてくれますやうに。せめて、この一言のみが、掻き消え失せてくれないやうに、と。
 私は然し、私の必死の希願に就て、自ら一語も発することができなかつた。私はたゞ、幸ひに残り得た一語のいのちを胸にだきしめてゐたのである。あゝ、これは残さう。これは面白い言葉ぢやよ、とそれに答へた河田の言葉を私は今も忘れることができないほどである。
 私はすでにその前に、矢田さんと結婚したいといふことを母に言つた。母も即座にうなづいてゐたが、やがて日数へて、いつ結婚するか、といふ。私は胸をしめつけられて、返事ができず、やうやく声がでるやうになると、もう厭なんだ、やめたんだ、と答へて席を立つた。
 然し、三日にあげず手紙が来てゐるのだから、母は私の言葉を痴話喧嘩ぐらゐにしか受けとらず、あるとき親戚の者がきたとき、私を指して、今度、矢田津世子と結婚するのだ、と言ふ。嘘だ! 結婚しないと言つてゐるのに! 私は唐突に叫んだ。叫ぶことが、無我夢中であつた。私の血は逆流してゐた。私は母の淋しい顔を思ひだす。
 その頃だつた。例の十七の娘が、神経衰弱の如くになつて、足もとをフラ/\させ、私を訪ねてきて、酒を飲みに行かうよ、
前へ 次へ
全20ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング