二十一
坂口安吾
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【テキスト中に現れる記号について】
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#二の字点、1−2−22]
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そのころ二十一であった。僕は坊主になるつもりで、睡眠は一日に四時間ときめ、十時にねて、午前二時には必ず起きて、ねむたい時は井戸端で水をかぶった。冬でもかぶり、忽ち発熱三十九度、馬鹿らしい話だが、大マジメで、ネジ鉢巻甲斐々々しく、熱にうなり、パーリ語の三帰文というものを唱え、読書に先立って先ず精神統一をはかるという次第である。之は今でも覚えているが、ナモータツサバガバトオ、アリハトオ、サムマーサーブツダサア云々に始まる祈祷文だ。一緒に住んでいた兄貴はボートとラグビーとバスケットボールの選手で鱶の如くに睡る健康児童であったが、之には流石に目を覚して、とうとう祈祷文を半分ぐらい否応なく覚えこむ始末であったが、僕はそういうことを気にかけなかった。兄貴はボートとラグビーとバスケットボールの外には余念がなく、俗事を念頭に置かぬこと青道心の僕以上で、引越すと、その日の晩には床の間の床板に遠慮もなく馬蹄のようなものを打込み、バック台をつくり、朝晩ボートの練習である。床の間の土が落ち地震が始まり、隣家の人が飛びだしても、気にかけたことがない。学校から帰るとラグビーのボールを持って野原へとびだし、縦横無尽に蹴とばす。せまい原ッパだから、ボールが畑へとびこむと、忽ち畑の中を縦横無尽に蹴とばし、走り、ひっくりかえっているのである。
その頃は良く引越した。引越しの張本人は僕で、隣家が内職にミシンをやっていてウルサイので引越し、その次はピアノの先生が隣りにあってウルサくて引越し、僕が勝手に家を探して、明日引越すぜ、と言うと、兄貴は俗事が念頭にないから、住む家など問題にしていない。とうとう、板橋の中丸という所へ行った。池袋で省線を降り、二十分くらい歩くと田園になり、長崎村という所を通りこし、愈※[#二の字点、1−2−22]完全に人家がひとつもなくなって、見はるかす武蔵野、秩父の山、お寺の隣りであった。バスなどの無い時代だから、大股に歩いて三十五分、女の足は一時間たっぷりかかる。閑静無類、僕はことごとく満足であり、朝寝の兄貴は毎朝三十五分の行軍に半分ぐらい走らなければならなかったが、之も練習と心得ているのか文句を言ったことはない。僕のウバ、もう腰のまがった老婆がついてきて炊事をしていてくれたのだが、僕のウバだから、僕のヒイキで、あんまり兄貴を大事にしない。尤も兄貴は若干婆やに弱味のシッポをつかまれており、ウチからの送金を持ちだし、時々僕のコヅカイも失敬する。僕は悟りをひらこうとして大いに忙しい時だからコヅカイなどは一文もいらず失敬されても平気であったし、第一失敬されたことは五六年あとに気がついたので、その頃は知らなかった。婆やは兄貴に不平満々、尤も僕は悟りに没頭忙しいから、婆やのグチなど相手にならぬ。クニの者が上京すると婆やは終日兄貴の不平を訴える。僕への不平はついぞ洩したことのない婆やであったが、板橋の中丸の引越しには、遂に終生ただ一度の不平を僕の母に洩したという。つまり、人家のある所まで二三十分かかるので御用聞きが来てくれないから、どうしても買い物に行かねばならぬ。もう腰の曲った婆やにはこの道中が骨身にこたえる難儀であった。然しこの不平を洩したのは、愈※[#二の字点、1−2−22]この家も引越しという時のことで、早く僕に言ってくれれば、不自由はさせなかったものを。
睡眠不足というものは神経衰弱の元である。悟りをひらこうという青道心でも身体の生理は仕方がない。僕は昔の聖賢の如く偉くないから、睡眠四時間が一年半つづくと、神経衰弱になった。パーリ語の祈祷文を何べん唱えても精神益※[#二の字点、1−2−22]モーローとなり、意識は百方へ分裂し、遂に幻聴となり、教室で先生の声がきこえず幻聴や耳鳴りだけが響くのには大いに迷惑した。夏休みがきたから、故郷の海で水浴に耽り、一気に神経衰弱を退治してやろうと思って勇ましく帰省したのに、丁度家には親戚の娘が来ていて、この娘に附き添ってきた女中が渋皮のむけた女で淫奔名題のしたたか者であった。僕にナガシメを送り、僕が勉強――といっても本の前に坐っているばかり意識百方に分裂してただ四苦八苦のところであるが――の部屋へはいってきて、忘れ物をしましたがと言って何か探す風をして僕の出方を待っている。尤も僕はこの女が好きでなかったからこの方はさしたることはなかったが、当時もう一人、これは女中でなく、行儀見習のため朝から夜まで通ってくる大工の棟梁の娘の小間使いがいて、十八、可愛い娘であった。この娘には参った。僕の部屋のことはみんなこの娘がしてくれるのだけれども、ある朝、もう御飯でございます、お起きなさいませ、と言ってやってきて(してみると、午前二時に起き、水をかぶるのは昔の夢、この頃はモーローふてねを結ぶに至っていたのであろう)よろしい、起る、そこで娘はカヤを外していた。僕はまだネドコにひっくりかえっていたが、煙草をとって貰おうと思って、ちょっと、とよんだ。娘の全身は恐怖のために化石し、然し、それは、期待のために息苦しい恐怖であった。僕は怖い顔をして、煙草と叫んだが、その時以来、僕の分裂した意識の中で、この娘の姿ばかりが、時ならぬ明滅、ために僕は疲れ、身心ねじくれた。
悪いことには、この時以来、娘が急に信頼をよせて、怖がる様子がなくなった。そのころ家では毎日夕方になると一家総出で庭に水をまく。この土地は夕方になると風が凪ぎ、ソヨと動く物もない。母は夕凪ぎが大きらいで、庭一面に水をまかせて、せめて涼をとりたがる。僕は海から戻ってくるのが夕方で、これも神経衰弱退治と心得、水着の姿でまっさきにバケツをぶらさげて庭へとびだして水をまく。女中もみんな飛びだしてきて、娘も甲斐々々しく尻を端ショッて現れる。(このころはアッパッパはなかった。)僕は神経衰弱でも青年男子であるから一番遠い所へ水を運び、人の最も好まざる苦難を敢て行うというのは、之も青道心のせめてもの心掛けというものであった。離れの後を廻って便所の裏、そんなところは誰も水を運んでこない。ところが、娘が、重いバケツをぶらさげて、ヨタヨタしながら、僕につづいて、やってくる。僕のバケツがカラになると、待っていて自分のバケツを差出すのだった。そのバケツを手渡す時の一瞬、まさしく一瞬、なぜなら、娘はすぐ振向いて逃げ去ってしまうから、その瞬間の娘の眼に僕は生れて始めて男女の世界というものを痛烈に見たのであった。その一瞬、娘は僕の顔を見る。「うるおい」とでも言うより外に仕方のない漠然たる一つの生命を取去ったなら、この眼はただ洞穴のような空虚なものであり、白痴的なものであった。生命よりも、むしろ死亡のむなしさに満ちていたことを、思いだすのは間違いであろうか。僕は娘が好きであった。だから、この一瞬の眼は、僕の全部をさらいとる不思議な力であった。逃げ去る娘を茫然と見送り、幸福な思いのために暫時を忘れるのであったが、僕の神経衰弱は急速に悪化した。一行といえども読書ができぬ。一字一字がバラバラで、一行をまとめて読みとる注意力がつづかない。意識は間断もなく分裂、中断、明滅して、さりとて娘の姿を意識の中でとらえることも出来ない。
母に願って娘と結婚させて貰おうか、と考えた。けれども悟りをひらいて偉大なる坊主になろうという時であるから煩悶した。母にたのんだところで承知する筈はないし、反対を押切り娘と二人で生きぬこうかと思いもしたが、坊主になる決意の下では、こういうことが邪念であり妄想だという考え方が対立した。神経衰弱退治どころの話ではない。ほっとくと気違いになりそうだから、まだ夏休みが半分ぐらい残っていたが、突然思い立って東京へ戻った。その日、突然呆気にとられる母の顔に苦い思いをしながら、出発してしまったのだ。すると娘が追っかけてきて、忘れ物です、と云って、路上で何かを届けてくれた。この忘れ物が何だったか、まったく記憶に残らぬけれども、娘はその品物を届けるために外の何事も考えずに駆けて来たのに相違なく、決勝線へ辿りついた百米選手のような呼吸であった。その後は再び娘に会ったことがない。
僕が早く帰ってきたので東京の婆やは喜んだけれども、神経衰弱は悪化の一方で、秋の訪れる頃、病状言語を絶し、毎朝池袋から省線で巣鴨の方へ行く筈なのに、プラットホームの反対側が赤羽行きで、あっちは赤羽行きだからイケないとそればかり考えるうちに赤羽行きの車掌が出発の笛を吹くと、アッ、たしかこっちが俺の行く方だ、と急にそう考えて乗ってしまう。之が毎朝のことである。なさけなさ、毎朝、板橋へつき、泣いても泣ききれぬ思いで茫然と戻る虚しさは切なかった。神経衰弱というものは単に精神的に消耗するばかりでなく、肉体的にも稀代の衰弱を見せるもので、田園へ散歩に行き三四尺の流れが飛び越せず水中に落ち、子供とキャッチボールしたら、十米ぐらいの距離をボールがとどかぬ。僕は元来インターミドルで優勝したジャンプの選手で、又、野球も選手、投手であった。もう四十に手のとどこうという今日此頃でも、五米ぐらいは飛べるし、手榴弾投げは上級にパスするぐらい。神経衰弱というものは奇怪な衰弱を表すものだ。考えてもみなさい。たった三四尺の流れを飛ぶのに全然足が上らず、引きずるようにバチャンと水中に落ちる驚きと絶望。自由自在に飛ぶ筈のボールが人の手を借りて投げるような不自由さで十米とどかぬ時の訝しさは、ただ廃人ということのみを考えさせ、絶望のために益※[#二の字点、1−2−22]病状は悪化した。あるとき市村座(今はもうなくなったが)へ芝居を見に行き、ここは靴を脱がなければならない小屋で、下足番が靴をぬぎなさいと言い、僕もそれをハッキリ耳にとめてここは靴をぬがなければイケないのだと思い、又、それに反対する気持は決して持っていないのに、何か生理的、本能的とでも言う以外に法のない力で、僕は靴のまま上って行こうとするのである。そうして下足番になぐられた。それでも靴をぬごうとせず、又歩きだそうとするので、三人の男が僕を押えつけ、ねじふせて、靴をぬがせて突き放した。それ程の羞かしさを蒙りながら、僕は割合平然と芝居を最後迄見て帰ってきたが、そのときはどんな心理であったか、今はもう思いだすことが出来ないのである。
当時僕には友達がなかった。たくさん有ったが、僕の方から足を遠くしたのである。なぜなら、僕が坊主になろうというのは、要するに、一切をすてる、という意味で、そこから何かを掴みたい考えであり、孤独が悟りの第一条件だと考えていた。けれども神経衰弱になってみると、分裂する意識の処理ほど苦しいものはなく、要するに、孤独が何より、いけない。孤独は妄念の温床だ。誰でもいい、誰かと喋っていればいくらか救われる。そこで僕は二人の友を毎日訪ねた。一人は辰夫と云って、之は当時発狂して巣鴨養保院の公費患者であり、も一人は修三と云って(菱山ではない)之は当時岸田国士、岩田豊雄氏らが組織しかけていた劇団の研究生、共に中学時代の同級生であった。
修三は彫刻家の弟と二人で婆やを使って一軒家をもっていたが、兄弟二人は花やかな生活に酔っ払い深夜でなければ帰らないし、二三日泊ってくることはザラにある。けれども僕は孤独になっては地獄だから、そこで婆さんと話しこむ。この婆さんの娘はさる高名な占師(これが兄弟の叔父さんだ)の妾であったが、若死して、婆さんは三十円の捨扶持で占師に余世の保証を受けていた。徳川家康の顔を女に仕立てたようなふとった婆さんは、死んだ娘のこと及びそれにからまる占師のこと以外に喋らず、しかも僕が一言半句口をさしはさむ余地もない大変なお喋りだ。僕の毎晩の訪れに大喜び、娘の生い立から死に至るまで同じことを繰返しきかされたけれども、ひとつも耳に残っておらぬ。こう
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