あなたのような方にとって、宗教ぐらい誂え向きな住みかはない。俗念をすてなさい。三十円ぐらいの金は有っても無くても同じことです。執着をすて神様にたのんで大往生をとげなさい。さよなら。
婆さん訪問は毎日夜間の行事であったが、昼は昼で精神病院へ辰夫という友達を毎日訪ねていた。辰夫は周期的に発狂するたちで、当時全快していたが、公費患者というものは然るべき身元引受人がないと退院できぬ。発狂したとき霊感があって株をやり、家の金を持ちだして大失敗したり、母親へ馬乗りになって打擲したりしたから、家族は辰夫の一生を病院の中へ封じるつもりで、見舞いにも来ないのである。僕が毎日訪ねて行くから辰夫の感動すること容易ならぬものがあるが、こっちの方はそれどころではないので、気違いでも何でも構わぬ、誰かと喋っていなければ頭が分裂破裂してしまうという瀬戸際で、犯罪人が現場へ行ってみたがる心理と同じようなもので、僕も精神病院の底の底まで突きとめておきたいという気持もあった。犯罪者が刑事を怖れるように、僕も医者が煙たかったり、冷やかしてみたかったり、智恵くらべしたいような気になったり、そのころ受付に可愛い(と云ってもそれ程のこともないが)看護婦がおったが、患者達も一様に目をつけていると見え、辰夫の言葉からそれが分るし、その娘が昼休みに庭の隅で同僚と繩飛びをしていたのを気違い達が各※[#二の字点、1−2−22]の窓から息を殺してのぞいていた。その情景の辰夫の表現が異様に仇めいていて僕はビックリしたのであった。こういう珍らしい話をきいたり、可愛い看護婦の顔を見たり、色々景品があるので、僕は大いに喜んで毎日通っていたが、そうそう珍しい話はつづかぬ。治った狂人というものは概して非常に自卑的な卑屈な気持になるらしく、始めはそれも面白かったが、馴れてしまえば、こっちの気持まで重苦しくなるばかりである。面会室は広い講堂で、その隅ッコに二人差向い、横に看護婦が[#「看護婦が」はママ]控えておる。看護人はみんな気違い上りで、いずれも目付が尋常でなく、何を言いかけても返事もせず、顔色一つ動かしたためしがない。糞マジメで、横柄で、威張り返って、いつ横からポカリと僕を殴るか分らぬような油断のならぬ面魂だ。この看護人は毎日必ずバイブルを片手にぶらさげておった。僕達も仏教のことばかり喋っていたが、話の種がつき、話の途中にタメ息がもれるぐらい、僕はもう明日からは断々乎として訪問を止そうと思う。重苦しくて、頭が破れそうである。ところが辰夫は規定の面会時間が終って別れる時に僕の手を握り、明日も来てくれたまえね。君の訪ねてくれるのだけが生き甲斐なのだから、と云って泣きだすものだから、僕も之にはタマげてしまって訪問を止すということが出来なかった。ところへ世はままならぬもので、病院の方では僕の毎日の訪問が殊勝だというわけで、三十分の面会時間を一時間に延してくれたのである。僕も心中暗涙を流して、この調子ではオレも愈※[#二の字点、1−2−22]精神病院だと絶望した程であった。尤も、僕の友愛精神に感激して、受付の看護婦が大変僕に好意を示し、僕の姿を認めるとニコリと笑って立上ってハイと云って奥へ知らせに駈けこんで行く。これだけは気持が良かった。
病院訪問と同時に、辰夫に頼まれ、病院の帰り道に毎日辰夫の母に会いに行かねばならなかった。つまり全快のことを告げて退院の手続を運ぶこと、尤も辰夫は三等患者時代の借金があるので、金の工面がつかなければ退院が延びても仕方がないが、チーズやバタを送ってくれ、と頼む為だ。というのは、辰夫の家は食料品店だったからだ。ところが発狂当初辰夫は母をブン殴ったり首をしめたりしたものだから、辰夫という名前をきいても母親は厭な顔をする。気違いという病気は治るものじゃない。と言って僕に説教し、性こりもなく僕が毎日訪ねて行くものだから、この男も精神に異状があるのじゃないかと疑ぐりだすのであった。けれど毎日辰夫にせがまれるから仕方がない。之も神経衰弱療法の一つで、何でもいい、何かしら目的をもって行動しておればいくらか意識の分裂が和ぐのだから、僕は実にはやキチョウメンに、風速何百米の嵐でも出掛けて行った。どうせ先方の返事は分っているのだから、僕は諦めの良い集金人みたいのもので、店頭に立ち又来ました、というしるしにニヤリと笑う。すると先方はホラ気違いが笑ったというのでゾッと身顫いに及び、気違いにチーズやバタがいりますか、ゼイタクな、それを又、取りつぐ馬鹿がいるのだからネ、と言って怒るのである。フッフッフ。あいつ発狂して私に馬乗りになってネ、ホラ、まだ爪跡があるでしょう、締め殺そうとしたのですよ。実の母親をね。お前さんも厭な顔附だ。やりかねないよ。おお、怖わ。フッフッフ。と言うのであった。ヒステリ
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