不自由さで十米とどかぬ時の訝しさは、ただ廃人ということのみを考えさせ、絶望のために益※[#二の字点、1−2−22]病状は悪化した。あるとき市村座(今はもうなくなったが)へ芝居を見に行き、ここは靴を脱がなければならない小屋で、下足番が靴をぬぎなさいと言い、僕もそれをハッキリ耳にとめてここは靴をぬがなければイケないのだと思い、又、それに反対する気持は決して持っていないのに、何か生理的、本能的とでも言う以外に法のない力で、僕は靴のまま上って行こうとするのである。そうして下足番になぐられた。それでも靴をぬごうとせず、又歩きだそうとするので、三人の男が僕を押えつけ、ねじふせて、靴をぬがせて突き放した。それ程の羞かしさを蒙りながら、僕は割合平然と芝居を最後迄見て帰ってきたが、そのときはどんな心理であったか、今はもう思いだすことが出来ないのである。
 当時僕には友達がなかった。たくさん有ったが、僕の方から足を遠くしたのである。なぜなら、僕が坊主になろうというのは、要するに、一切をすてる、という意味で、そこから何かを掴みたい考えであり、孤独が悟りの第一条件だと考えていた。けれども神経衰弱になってみると、分裂する意識の処理ほど苦しいものはなく、要するに、孤独が何より、いけない。孤独は妄念の温床だ。誰でもいい、誰かと喋っていればいくらか救われる。そこで僕は二人の友を毎日訪ねた。一人は辰夫と云って、之は当時発狂して巣鴨養保院の公費患者であり、も一人は修三と云って(菱山ではない)之は当時岸田国士、岩田豊雄氏らが組織しかけていた劇団の研究生、共に中学時代の同級生であった。
 修三は彫刻家の弟と二人で婆やを使って一軒家をもっていたが、兄弟二人は花やかな生活に酔っ払い深夜でなければ帰らないし、二三日泊ってくることはザラにある。けれども僕は孤独になっては地獄だから、そこで婆さんと話しこむ。この婆さんの娘はさる高名な占師(これが兄弟の叔父さんだ)の妾であったが、若死して、婆さんは三十円の捨扶持で占師に余世の保証を受けていた。徳川家康の顔を女に仕立てたようなふとった婆さんは、死んだ娘のこと及びそれにからまる占師のこと以外に喋らず、しかも僕が一言半句口をさしはさむ余地もない大変なお喋りだ。僕の毎晩の訪れに大喜び、娘の生い立から死に至るまで同じことを繰返しきかされたけれども、ひとつも耳に残っておらぬ。こうして毎晩修三兄弟の不在がつづき婆さんと僕二人だけで深夜まで話しこむ習慣がつくと、婆さんは僕を大いに頼もしがり、グチから転じて三百代言のようなことを頼まれた。婆さんは占師から月々三十円の生活費をもらっていたが、修三兄弟と一緒の生活を命じられて以来、一文の金も受取らぬ。女中だって只の筈はないわけで、こういう不良青年兄弟の世話をやらされたあげく、従来の生活費まで体よく中止されては話にならぬ。生活費をくれないわけはないので、兄弟が消費しているに相違ないから、占師に会ってこのことを確かめてくれないか、というのである。兄弟にききただしても嘘をつくにきまっているし、婆さんは占師の本宅は門前払いで、若しも強いて訪ねてくれば、それを限りに絶縁するということを堅く言い渡されていたのであった。
 この占師は中学生のころ修三を訪ねて行って(修三は占師の家にいた)時々見かけたことがあったが、占師という特殊な世渡りが我々に感じさせる悪どいものはなくて、文学青年的な神経をもった根気のつづかない憎めない人というような印象を受けた。膝つき合せれば何事でも腹蔵なく言い合えるような印象だったが、婆さんの依頼の用で会う気はなかった。ほったらかしておくと、サイソクが急になったので、やむなく連日の医療訪問を中止してしまった。
 ところが、僕が訪問を中止すると、まもなく、修三兄弟は遊びつめて首がまわらぬ仕儀となり、婆さんを置き去りに夜逃げする。婆さんは金光教の信者だったので、本郷の金光教会へ引きとられた。これらの出来事を僕は知らずにいたのである。
 ある日、婆さんから手紙がきて、之までの事情が書いてあり、修三兄弟夜逃げの責任を問われて送金を絶たれたが、こんな筋の合わぬことはない。ぜひ力になって欲しい。占師にかけ合って貰いたい。ついては是非一度訪ねてきてくれ、と書いてある。仕方がないので教会を訪ねて行ったが、もう印象が殆んどないけれども、薄暗い六畳ぐらいの小部屋が幾つかあって、その一つで婆さんと会った。殆んど人の気配を感じない建物であった。婆さんはシクシクとシャクリあげながら、いつ終るともないグチ話。僕は一段落つくのを待ち、そのとき迄は全然念頭にもなかったことを急に思いついて言い、婆さんの呆気にとられるのを尻目にサッサと帰って来たのであった。僕は言った。お婆さん。あなたは世の中で一番気楽な隠れ家の中にいるのです。
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