イ甚しい老婆で、不運つづき、気の毒な人だと思い、僕は腹が立たなかった。いいえ辰夫は全快しているのですよなどとでも言うものなら、実に深刻に怯えきって僕をみつめ、こいつも気違いだ、と疑ぐりだすから、ヤア、それはどうもお気の毒でした、では本日は之まで、と戻ってくる。
 檻の中の辰夫は家族の愛情を空想せずには生きられぬ。僕も之を察していたので、辰夫の夢をくずしてはならぬ、と思い、用があって昨日は母に会えなかった、と毎日同じ嘘をつく。之が嘘だということを辰夫もやがて気付いたが、彼自身とてこの夢をくずしては破滅だから、そう、と一言頷くだけ、強いて訊ねることはなかった。けれども辰夫の身にすれば、家族の愛、これだけが唯一の夢。僕のそぶりから家族の冷めたさをさとるにつけて、彼の心は一そう激しく母の愛を祈りはじめる。はては、僕が例の如く昨日も用で君の家へ行けなかったと嘘をつくたびに、不器用にヘタな嘘をつきたもうな、という顔をし、君はまだ人生の深所が分らぬから母の表面の表現に瞞著されているが、母は自分を愛している、ただ四囲の情勢からその表現が出来ないだけだ、という意味のことをそれとなくほのめかそうとする。辰夫の心事の当然そうあるべきことを僕も同情をもって見ていたから、直接そのことに腹は立たないのだけれども、話題のつきはてた毎日の憂欝、破裂しそうで、一日、遂に僕は怒り狂い、君は実に下らぬ妄想にとりすがり、冷めたさに徹する術を知らぬ哀れな男だ。こんな檻の中にいてこそ、せめて冷めたさに徹する道を学ぶがよい。君の母こそまことに冷酷きわまる半気違いで、君のことなど全然考えてはおらぬ。見事なぐらい君のことを心配しておらぬから、僕は却って清潔な気持になるぐらい、君と話をするよりも君のおッ母さんと話をする方が数等愉しい。僕が毎日この病院へくるのは君に会いにくるのじゃなくて、実のところは、受付の看護婦の顔を見にくるのだ、と言った。怒り心頭に発して、こう言ったのである。ところが辰夫は看護婦云々のことなどは問題にせず、打ちのめされた如くに自卑、慙愧、ものの十分ぐらい沈黙のあげく、自分の至らぬ我儘から君を苦しめて済まぬ、と言った。ところが意外のところに伏兵があって、看護婦云々の一言をきくやバイブルの看護人が生き返ったキリストの如くに突然グルリと目玉をむいたので、アッと思った。
 その翌日、或いはそれから程遠からぬ日数の後、僕は遂に決意して、この訪問を中止してまもなく、辰夫の兄という人から少女小説のようなセンチメンタルな手紙をもらい、辰夫は退院し、鉄道の従業員となって千葉の方へ行ったという知らせを受けた。
 大事な医療訪問をみんな失ってしまったので、危機至る、何でもよろしい、何か目的を探してそれに向って行動を起さねばならぬ。僕は当時酒の味を知らなかったが、一度修三に誘われて酒を呑んだことのある屋台のオデンヤへ、ねむれぬままに深夜出掛けて行った。ところが相客に四十五六と思われる貧相な洋服男があり、ケイズ屋という商売だそうで、勝手な系図をこしらえて成金共に売る、いい金になるぜ、吉原で豪遊してきた、と威張っていた。僕に色々と話しかけ、エカキの卵だなどとデタラメなことを答えていると、誂え向き、ケッコウ、突然男は叫んで、葉書のような名刺をだし、明朝ぜひ訪ねてこい、金もうけの蔓がころがっていると言う。年をとると毎晩のオツトメがつらいよ。オレのオッカアはふとっていて、オッカない女だからね、アッハッハ、と帰って行ったが、消えるような貧相な後姿で、ヨソ目ながら前途の光の考えられぬ男に見えた。
 けれども僕は之ぞ神様の使者であると考えた。何でもよろしい、目的を定めて行為しておらねばならぬ。翌朝さっそく名刺をたよりに男の家を訪ねた。貧民窟である。どの家も表札がないので一時間ぐらい同じ所をグルグル廻らねばならなかったが、不思議な街があるもので、一町もある煉瓦づくりの堂々たる塀があるのである。ところが塀の両側はどっちも倒れそうな長屋がズラリと並んでいて、両側とも単に道であり、長屋であり、その道ではオカミサンが井戸をガチャガチャやり、子供が泣いたり、小便したり、要するに、昔、このへんに工場か何かあり、それをこわして塀の一部分だけこわし残っているうちに貧民窟が立てこんだという次第であろう。系図屋の家はその奥にあって、今まさに出勤という所、なるほどふとったオカミさんがいて、亭主の出勤など問題にせず食事中、チャブ台のまわりに子供がギャアギャアないていた。
 来たのかい、と言って男はてれたが、気をとりなおして、マア上りな、たのしみのある商売さ、いい金になるぜ、と言った。猥画を書けというのだが、絵の道具がないからと断ると、それは困ったな、弘法は筆を選ぶと言って、商売人は絵筆のギンミ又厳重だと言うから、コチトラの
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