宿命の子供であったから、それで二合一勺ぐらいの配給に不足もいわず、芋だの豆の差引だの、欠配だの、そういうことに不平や呪いがあるにしても、同時にあきらめていたのである。不平や呪いは自我のこえであるが、自我はすでに影であり、宿命の子供が各人ごとの心に誕生して、その別人が思考し、生活していたからであった。

          ★

 戦争は終った。しかし、戦争の宿命の子供はまだわれわれの自我と二重の生活をしており、主としてわれわれはまだ今日も宿命の子供で、ほんとうの自我ではないらしい。それは当然の話で、われわれの周囲は焼け野原であり、交通機関はヨタヨタし、要するに、バクダンはなくなったが、まだわれわれはまったく戦争の荒廃の様相のなかにいるからだ。われわれはあきらめているのだ。いな、われわれ自身が考えるさきに、われわれの心のなかで、別人があきらめてしまっている。戦争に負けた。ない袖はふれぬ。二合五勺の、それに芋がまじっても、しかたがない、と。
 戦争中そうであったごとく、われわれは今もなお、自我よりもむしろ宿命の子供であり、祖国の悲劇的な宿命にみずから殉じているのである。だからわれわれは二合
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