い。つまりわれわれは過去の歴史が物語るもっとも異常、壮烈な殉教者よりも、さらにはなはだしく、異常にして壮烈な歴史的人間であった。
しかしわれわれはその異常さも壮烈さも気づきはしない。なぜならわれわれの日常はぐうたらで、ヤミの買出しにふんづかまってドヤされたり、電車のなかで突きとばしたり、突きとばされたり、三角くじを何枚買ってもタバコがあたらず女房になぐられ、その日常の生活からは、異常にして壮烈なる歴史的人格などは、いっこうに見あたるよしもないからである。
しかし、われわれが日本カイビャク以来の異常児であり、壮烈児であることはまちがいがない。なぜなら、切支丹は三合で神を売ったが、われわれは二合一勺の、そのまた欠配つゞきでも、祖国を売らなかったからである。この事実は、すべてが公平な歴史となったときに、後世が判定してくれるはずである。
歴史と現実とは、かくのごとくに、まったく質がちがっている。現実というものは、いかなるときでも、いっこうにみずからの歴史的な機会のごときものを自覚しておらず、つねに居眠ったり、放尿したり、飲んだくれたりするたゞの人間であることを免れず、ぐうたらで、だらしが
前へ
次へ
全17ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング