て、歴史化する。美談はおゝむね歴史化であり、偉人も悪党も、なべて同時代の人間の語りぐさもあらかたそうであり、ぐうたらで、だらしがないのは自分とその環境だけ、そして環境をではずれると、現実もまた、歴史的にしか実在していないものだ。
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私は本来世に稀れなぐうたらもので、のんだくれで、だらしがないから、切支丹の殉教の気魄などには大いに怖れをなして、わが身のつたなさを嘆いていたのであったが、この戦争によって、にわかに容易ならぬ自信をえた。それは要するに、例の二合一勺と切支丹の三合に瞠目した結果にほかならぬのだが、私といえども、二合一勺のそのまた欠配つゞきでも祖国を売らなかったカイビャク以来の歴史的愛国者であることを自覚したからであった。
おもえば私はおもしろがって空襲を見物して、私自身も火と煙に追いまくられて逃げまわったり、穴ボコへ盲滅法とびこんで耳を押え、目を押えて突然神さまをおもいだしたり、そういうことも実際はさして身につまされておらず、戦争中も相かわらずつねにぐうたらで、だらしがなかった。
それにもかゝわらず、戦争というやつは途方もない歴史的な怪物、カイビャク以来の大化けものであったに相違なく、諸方の戦地で何百万の人々が死んだが、私自身の周辺でも、四方の焼跡で、たぶんさほど祖国も呪わず宿命的、いわば自然的にたゞ焼け死んだ大きな焼鳥のような無数の屍体も見たのである。吹きちぎられた手も足も見たし、それを拾いあつめもした。まったく無感動に、今晩の夕食の燃料のために焼跡の枯木を盗みにゆくよりもはるかに事務的な無関心で、私は屍体を見物し、とりかたづけていたのである。
そのこと自体がカイビャク以来の大事であり、私自身が歴史的な一大異常児であることを、そのときどうして気づきえたであろうか。私はたゞ、ぐうたらな怠けもので飲んだくれで、同胞の屍体の景観すらも酒の肴にしかねない一存在でしかなかった。その私すら、しかし、歴史的に異常にして壮烈な愛国者として復活しうるという、歴史のカラクリと幻術を、私は今、私自身について信じることができる。
私はしかし歴史の虚偽を軽蔑しようとはおもわない。知識ほど不安定なものはないからである。文化人よりも未開人の方が安定しているに相違ない。都会人よりも農村人の方がより少ししか戦争の雰囲気や感情にまきこまれなかったに相違ない
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