。そのかわり終戦後の変化にも、都会人はすぐ同化しえても、農村人はなかなか同化しないに相違ない。文化的に未開なものほど安定しているものなのだ。
歴史も知識の所産であって、したがって不安定で、必ずしも歴史的に安定するという絶対性をもつことはできぬ。その意味において、歴史的虚偽は虚偽なりに、われわれの現実とも相応しているからであった。そしてわれわれの現実は、これまた、安定してはおらぬ。知識はつねに不安定で、つねに定まる実体がない。
私はしかし、そういう屁理窟はとにかくとして、私がカイビャク以来の愛国者で、二合一勺のそのまた欠配つゞきに暴動ひとつ起さなかった歴史的人格の一人であったという発見に大いに気をよくしているのである。
そればかりではない。私は今もあいにく生きているゆえに天下に稀れなぐうたらものであるけれども、三四年前戦地にあれば殉国の愛国者でありえたかも知れぬ。いな、必ずありえたはずである。私は今朝の新聞に、カラフトの郵便局の九人の女事務員が、ソビエト軍の攻げきに電信事務を死守し、いよいよ砲弾が四辺に落下しはじめたとき、つぎつぎに服毒しておのおのの部署に倒れていったという帰還者の報告を読んだ。もしも殉国の九人の彼女らが今日もなお生きていたなら、今日なにものとなっているか、その想像を怖れる必要はないのだ。人間はそういうものだ。歴史的美談を怖れる必要もなく、また、われわれの現実のぐうたらを怖れる必要もない。すべてはおなじもの、人間、たゞ、それだけなのである。
だから私は近ごろでは、もう切支丹の殉教の気魄などにはいっこうにおどろかず、善人だの忠臣だのにおどろかず、あべこべにたいへんな鼻息で、ときには御機嫌のあまり、『日本の悲惨なる敗北と、愛国者坂口安吾氏の偉大なる戦記』などゝいう一大叙事詩をものしてやろうかなどゝ途方もない料簡を起したりする。
算術の達人があらわれて、浦上切支丹の三合と、私の二合一勺との歴史的価値の差異軽重について意外な算式と答を見つけだしても、私はいっこうに悪びれないのは、私は算術の公式にない詭弁の心得があるからで、曰く、私は私だ、ということ、つぎに、すべては、たゞ人間だ、ということ、これである。
されば今日二合一勺のそのまた欠配に暴動を起さなかった諸嬢諸氏すべて偉大なる殉国者であり、その愛国の情熱はカイビャク以来のものであることを確信し、今
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