い。つまりわれわれは過去の歴史が物語るもっとも異常、壮烈な殉教者よりも、さらにはなはだしく、異常にして壮烈な歴史的人間であった。
しかしわれわれはその異常さも壮烈さも気づきはしない。なぜならわれわれの日常はぐうたらで、ヤミの買出しにふんづかまってドヤされたり、電車のなかで突きとばしたり、突きとばされたり、三角くじを何枚買ってもタバコがあたらず女房になぐられ、その日常の生活からは、異常にして壮烈なる歴史的人格などは、いっこうに見あたるよしもないからである。
しかし、われわれが日本カイビャク以来の異常児であり、壮烈児であることはまちがいがない。なぜなら、切支丹は三合で神を売ったが、われわれは二合一勺の、そのまた欠配つゞきでも、祖国を売らなかったからである。この事実は、すべてが公平な歴史となったときに、後世が判定してくれるはずである。
歴史と現実とは、かくのごとくに、まったく質がちがっている。現実というものは、いかなるときでも、いっこうにみずからの歴史的な機会のごときものを自覚しておらず、つねに居眠ったり、放尿したり、飲んだくれたりするたゞの人間であることを免れず、ぐうたらで、だらしがないものだ。歴史の人物は歴史のうえで、歴史的にしか生活していないが、現実の人間というものは、主として夫婦喧嘩だの、三角くじの残念無念だの、酔っぱらって怪我をしたのと、あさましいことばかりで、二合一勺のそのまた欠配つゞきでも祖国を売らなかった歴史的美談のごときは、みずから意志した気魄のあらわれではなかった。彼らは配給の行列で配給係のインチキを呪ったり、ときには大いに政府の無能を痛罵して拍手カッサイしている自分の方を自分だとおもっており、カイビャク以来の大奇怪事を黙認して、二合一勺のそのまた欠配だの、焼けだされの無一物に暴動も起さぬ自分を自覚してはいない。そしてかゝる無自覚な面が歴史的に復活しておもいもよらないカイビャク以来の愛国者になるであろうということなどは、もとより夢にもおもわない。
現実はかくのごとく不安定ではあるが、また、不逞にして、ぐうたらで、健康なものだ。歴史は病的なものであり、畸形で、歪められているのである。すなわち、歴史的事実だけで独立して存し、特殊な評価を強いている。
それは歴史のみのカラクリではなく、現実もまた歴史化することが可能だ。軍神などゝいうものをデッチあげ
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