生れて以来の大事件で、思えば思うほど心が波立つばかりである。わくわくする胸を押えて、署内をなんとなく歩いたりしながら、懸命に作戦をねりあげている。
 そのヒマに娘の姿がどこかへ消えてしまったのに気づかなかった。
 百合子はいつのまにか署を抜けだして、すでに陳家の玄関で令嬢と対坐していた。なかば茫然とここへ辿りついてしまったのである。
 さすがに令嬢は蒼ざめていた。しかし、百合子が父の推理を語り終ると、静かに百合子の手をとって、握りしめた。
「ありがとう。百合子さん。本当に、うれしいのよ。私のお母さんだって、百合子さんのように私をいたわってくれなかったわ」
 令嬢が涙ぐんだので百合子も涙ぐみ、
「じゃア、本当にそうでしたの?」
「あら、ちゃんと知ってるから駈けつけて下さったくせに。ミス南京はたしかに私です。そして、奈々子さんを殺した共犯者もたしかに私です。私の父は台湾ではなく香港に居ります。そして、南京虫と麻薬を日本へ輸送していたのです。だんだん密輸ルートが見破られて面倒になったので、新しい方法を考えました。それは麻薬患者を探しだして、麻薬を餌に、密輸の荷物の仮の受取人に仕立てることです。奈々子さんはその受取人の一人だったのです。ところが、あの日、ひそかに荷物をあけて内容を知り、慾に目がくらんで荷物の到着を否定したのです。そのうち麻薬がきれかけて、私の同行者が、時々奈々子さんにそうしてあげたように注射してあげたのですが、彼は奈々子さんの変心によって、新しい密輸ルートの発覚を怖れるあまり、奈々子さんが無自覚のうちに多量の注射をうって殺してしまったのです」
 令嬢はもう平静をとりもどしていた。そして、微笑すら浮べて語りつづけた。
「私は父の相棒をつとめて数億の金を握りましたが、父が今度日本へ戻ったら、父を殺すつもりでした。乱世ですから、私の心は鬼だったのです。お金をもうけて、復讐してやりたかったのです。私を苦しめた人にも、苦しめない人にも、とりわけ、父に復讐しなければならなかったのです。なぜなら、彼は父ではないからです。彼は私の良人《おっと》なのです。私はお金で買われた内妻の一人です。そして私は日本人です」
 令嬢はきつく力をこめて百合子の手を握りしめると立上った。そして、笑みかけた。
「私の日本名と、素性だけは、私と一しょに永遠に墓の底に埋めさせてちょうだい。私はこれか
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