になることはできないのかな、と、女帝の空想はたのしかつた。道鏡が天皇になつたら、うんと駄々をこねて、こまらしてやりたい。うんとすねたり、うんと甘えたり、手のつけられないお天気屋になつてやりたい。そして道鏡の勘の鈍い、取り澄した、困つた顔を考へて、ふきだしてしまふのだ。

          ★

 和気清麻呂《わけのきよまろ》は戻つてきた。
 彼のもたらした神教は意外な人間の語気にあふれ、奇妙な結語で結ばれてゐた。無道の者は早くとりのぞくべし、といふのだ。
 道鏡は激怒した。なぜなら、彼は、たゞ神教の真否をもとめたゞけだつた。天皇になりたいなどゝは言はない筈だ。むしろ、心の片隅ですら、それを望んだ覚えがなかつた。
 清麻呂の復奏は、たゞ道鏡を刺殺する刃物の如く、彼のみに向け、冷やかに、又、高く、憎しみと怒りと正義をこめて、述べられてゐた。
 その不思議さに、いち早く気付いた人は女帝であつた。道鏡の立場は何物であるか。彼はたゞ、贋神教に告げられた一人の作中人物にすぎない。咎めらるべき第一のものは、贋神教であらねばならぬ。神教はそれに就いてはふれてはをらぬ。清麻呂の語気も態度も、阿曾麻呂に向けた批難のきざしが微塵もなかつた。
 清麻呂の態度は明らかに、阿曾麻呂は道鏡の旨をうけて贋神教をもたらした傀儡であると断じてゐる。清麻呂の神教自体の語るところが、さうでなければ意味をなさぬ。女帝は道鏡を知つてゐた。彼にはあらゆる策がなかつた。かりに己が主観はとりのぞき、真実阿曾麻呂が道鏡の傀儡だつたと仮定せよ。和気清麻呂とは何者か。彼はたゞ神教の真否をたゞす使者ではないか。ありのまゝの神の言葉を取次ぐだけの使者ではないか。私情のあるべきいはれはない。語気のあるべきいはれはない。言葉と意味があるだけでなければならぬ。
 清麻呂の語気は刃物となつて道鏡を斬り、怒りと憎しみと正義によつて、高ぶり、狂つてゐるではないか。即ち、そこにあるものは、神教ではなく、彼自身の胸の言葉でなければならぬ。
 すべてがすでに明白だつた。阿曾麻呂も清麻呂も、ぐるなのだ。道鏡をおとすワナだつた。
 道鏡は激怒にふるへてゐた。面色は青ざめはてゝ、その息ごとに、その鼻から、その目から、忿怒の火焔の噴きでぬことが不思議であつた。
 女帝はかゝる傷ましい道鏡の顔を見たことはなかつた。女帝の胸は苦痛にしびれた。一時に怒りがこみあげてきた。この単純な魂を、この高貴な魂を、なぜそなたらは、あざむき、辱しめ、苦しめるのか。女帝の顔はにはかに変つた。清麻呂をはつたと睨みすくめてゐた。
 すでに清麻呂は面を伏せて控えてゐたので、女帝の怒りの眼差は気付かなかつた。然し、百川はそれを見た。彼の胸に顛倒した叫びが起つた。シマッタ! と。
 然し、そのとき天皇はすつくと立つて、すでに姿が消えてゐた。

          ★

 清麻呂は芝居をやりすぎた。あまり正直に生の感情をむきだしたことによつて。あまりに嘘がなかつたゝめに。彼は正直でありすぎた。すでにカラクリの骨組は女帝に看破せられたことを百川は悟らずにゐられなかつた。
 寸刻の猶予もできなかつた。たゞちに清麻呂に因果をふくめ、神教偽作のカラクリ全部を一身に負ふ手筈をきめる。直ちに百川は上奏して、清麻呂はすでに神教偽作の罪状を告白したと告げた。さもなければ、カラクリの全部がばれるから。
 清麻呂は官をとかれ、別部穢麻呂《わけべのきたなまろ》と改められて、大隅《おおすみ》国へ流された。
 百川の秘策は完全な失敗だつた。この事件により、女帝の道鏡によせる寵愛と信任は至高のものに深まつた。道鏡は唯一無二のものだつた。それは、然し、すでに昔から、さうだつた。女帝は堅く決意した。道鏡はわが後継者、皇太子、次代の天子、といふことだ。世の思惑は物の数ではなかつた。祖宗の神霊も怖れなかつた。
 のみならず、世上の風説も、この事件の結末から、道鏡は天皇でありうるといふ結論になり、やがて、次代の天皇は道鏡だといふ取沙汰があつた。未だに立太子の行はれぬことが、この風説を疑はれぬものに思はせた。そして、人々は確信した。やがて道鏡は天皇である、と。
 百川は再び啓示をつかんでゐた。女帝のこの絶対の信任のある限り、女帝の存命中は道鏡を失脚せしめる見込みはなかつた。女帝の死後。それあるのみ。
 百川は、道鏡天皇説の流行を逆用する手段を見出してゐた。道鏡は愚直であり、信じ易い性癖だつた。道鏡天皇説を益々流行せしめるのだ。庶民達がそれを真に受けて疑ることがないぐらゐ。そして、道鏡に思ひこませてしまふのだ。必ず天皇になりうる、と。殿上人《てんじようびと》も地下《じげ》も庶民も、全てがそれを希んでゐる、と。そして彼は安心しきつてゐる。信じきつてゐる。人々の総意により自然に天皇になつ
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