。そして彼はもはや一人の物思ひに、夜の遊びを思ひだすことがあつても、大空の下、あの葛木の山野の光のかゞやきの下の、川のせゝらぎと同じやうな、最も自然な、最も無邪気な豊かな景観を思ふのだつた。
彼は女帝を愛してゐた。尊く、高く、感じてゐた。
彼は内道場の持仏堂の仏前に端座し、もはや仏罰を怖れなかつた。否、仏罰を思はなかつた。女帝と共に並んで坐り、敬々しく礼拝し、仏典を誦《ず》し、彼の心は卑下するところなく高められ、遍在し、その心は香気の如く無にも帰し、岩の如くにそびえもし、滝の如くに一途に祈りもするのであつた。女帝の貴き冥福のために。
彼は自分を思はなかつた。たゞ、女帝のみ考へた。彼は女帝を愛してゐた。彼の心も、彼のからだも、女帝のすべてに没入してゐた。女帝は彼のすべてゞあつた。彼の魂は幼児の如く、素直で、そして、純一だつた。
★
藤原一門の陰謀児達は冷やかな目で全ての成行を見つめてゐた。
道鏡といふ思ひもうけぬ登場によつて、彼等自身細工を施すこともなく、恵美押勝は自滅した。道鏡は押勝よりも単純だつた。そして、彼等に仇をする憂ひはなかつた。彼等はたゞ機会を冷静に待てばよかつた。あせる必要はなかつたから。
彼等は法王道鏡を天子の如く礼拝し、ひれふし、敬ふた。陰口一つ叩かなかつた。法王たることが道鏡の当然な宿命であることを、彼等が知つてゐるやうだつた。
然し、法王といふ意外きはまる人爵の出現に、百川の策は天啓の暗示を受けた。それは道鏡に天皇をのぞむ野望を起させ、そのとき、それを叩きつぶすことによつて、一挙に彼を失脚せしめる芝居であつた。
折から彼等の腹心の中臣|習宜阿曾麻呂《スゲノアソマロ》が大宰府の主神《カンヅカサ》となつて九州へ赴任することになつた。主神は大宰府管内の諸祭祀を掌《つかさど》る長官で、宇佐八幡一社のカンヌシの如き小役ではなかつた。
百川は彼に旨をふくめた。
赴任した阿曾麻呂は一年の後、上京した。彼は宇佐八幡の神教なるものを捧持してゐた。それに曰く「道鏡をして皇位に即かしめば、天下太平ならん」と。
道鏡は半信半疑であつた。天皇を望む野心を、夢みたことすら、彼はなかつた。望む必要がなかつたのだ。天皇は、すでに、ゐた。彼の最も愛する人が。彼のすべてゞある人が。
然し、藤原一門の陰謀児たちは執拗だつた。彼等は先づ神教によつて祝福された道鏡の宿命と徳をたゝへた。そして道鏡は皇孫だから、当然天皇になりうる筈だと異口同音に断言した。甘言はいかなる心をもほころばし得るものである。それをたとへば道鏡がむしろ迷惑に思ふにしても、それを喜ばぬ筈もない。
然し、と彼等の一人が言つた。事は邦家の天皇といふ問題だから、阿曾麻呂の捧持した神教だけで事を決することはできぬ。然るべき勅使をつかはして、神教の真否をたゞさねばならぬ、と。
もとよりそれは何人をも首肯せしめる当然の結論だつた。もし道鏡がその神教を握りつぶして不問に附する場合をのぞけば。
道鏡は迷つた。然し、彼は単純だつた。まことにそれが神教ならば、と彼は思つた。
そして、彼が勅使の差遣に賛成の場合、彼は天皇になりたい意志だといふ結論になることを断定されても仕方がないといふことに、気付かなかつた。
勅使差遣の断案は道鏡自身が下さなければならないのだ。彼は諾した。
★
道鏡をこの世の宝に熱愛し、その愛情を限りなく誇りに思ふ女帝であつたが、道鏡を天皇に、といふ一事ばかりは夢にも思つてゐなかつた。天皇は自分であつた。その事実は、疑られ、内省されたことがない。
女帝は彼に法王を与へた。天子と同じ月料と、天子と同じ食服と、鸞輿を与へ、法王宮職をつくつて与へた。すでに実質の天皇だつた。すくなくとも、彼女が男帝ならば、道鏡は皇后だつた。
女帝は気がついた。家をまもる陰鬱な虫の盲目の希ひが、天皇は自分であるといふことを、てんから不動盤石に、疑らせもしなかつたのだ、と。
女帝は道鏡が気の毒だつた。いたはしかつた。そして、いとしくて、切なかつた。どこの家でも、女は男につき従つてゐるではないか。なぜ、自分だけ。なぜ道鏡が天皇であつてはいけないのか。
女帝は決意した。宇佐八幡の神教が事実なら、そして、勅使がその神教を復奏したなら、甘んじて彼に天皇を譲らう、と。なぜなら、彼は皇孫だから。諸臣もそれを認めてゐる。のみならず、天智天皇の孫ではないか。
女帝はその決意によつて、幸福であつた。愛する男を正しい男の位置におき、そして自分も、始めて正しい女の姿になることができるのだ、と考へた。
まだ女帝には皇太子が定められてゐなかつた。可愛いゝ男は今は彼女の皇太子でもあつたのだ! 上皇といふ女房の亭主が天皇とは珍らしい。天皇から皇后
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