でもなく、時雨にぬれた山や野の姿でもなかつた。それは人の心であつた。そして、それが自分の心であるのに気付いて、上皇は驚くのだ。上皇は冬空を見、冬の冷めたい野山を見た。その気高さと、澄んだ気配に、みちたりてゐた。すでに彼女は道鏡に、身も心も、与へつくしてゐた。
天皇は上皇と道鏡の二人の仲を怖れた。押勝のために怖れたのだ。天皇は恋に就ては多くのことを知らなかつた。彼は道鏡を見くびつてゐた。否、それよりも、上皇と押勝の過去の親密を過信し、盲信しすぎてゐた。
天皇は日頃にも似ず、上皇に対して直々|諷諫《ふうかん》をこゝろみた。上皇の忿怒《ふんぬ》いかばかり。その日を期して、二人はまつたく不和だつた。
上皇は出家して、法基と号し、もはや全く道鏡と一心同体であつた。道鏡を少僧都に任じ、常に侍らせ、押勝は遠ざけられた。彼はもはや上皇にとつて、全く意味のない存在だつた。
押勝は悶々の日を送り、道鏡に憤り、上皇を怨んだ。嫉妬に燃え、失脚に怖れ、彼の心は狂ほしかつた。自ら陰謀する者は、人の陰謀を更に怖れる。彼は失脚の恐怖に狂ひ、人の陰謀の影に狂つて、自ら謀反を企んだ。
彼は太政官の官印を盗んで符を下し、ひそかに兵数を増加した。
密告する者があつて、罪状あらはれ、押勝は逃げて近江に走つた。退路を断たれ、追捕《ついぶ》の軍は迫つてきた。押勝はやむなく我が子、辛加知《カラカチ》の任地越前に逃げ、塩焼王をたてゝ天皇と称し、党類に叙位して士気を煽り、その儚なさに哀れを覚えるいとまもなかつた。追捕の軍は攻めこんできた。味方の勢は戦ふ先に逃げだしていた。秋だつた。時雨が走り、山に枯葉がしきつめてゐた。彼は刀も手に持たず、敵に向つてフラ/\うごいた。まるでわけが分らぬやうに相手の顔を見つめてゐた。刀は肩へ斬りこまれた。まるでびつくり飛び上るやうな異体《えたい》の知れない短い喚きが虚空へ消えた。斬られた肩を片手でおさへた。すると指をはねるやうに血のかたまりが吹きあげた。そして彼はごろりと転んで死んでゐた。
塩焼王も殺され、押勝の妻子も斬られ、その姫は絶世の美貌をうたはれた少女であつたが、千人の兵士に犯され、千一人目の兵士の土足の陰に、むくろとなつて、冷えてゐた。
天皇の内裏も兵士によつて囲まれた。使者の読みあげる宣命に「天皇の器にあらず、仲麻呂と同心して我を傾ける計をこらし」と書かれてゐた。即坐に退位を命ぜられ、淡路の国へ流された。そして翌年、配所で死んだ。
★
上皇は法体のまゝ重祚して称徳天皇と云つた。出家の天皇には出家の大臣がゐてもよからうと仰せがあつて、道鏡は大臣禅師といふ新発明の官職を与へられた。
翌年、太政大臣禅師となり、二年の後に、法王となつた。
それは女帝の意志だつた。
女帝は道鏡が皇孫であり、たゞの臣下ではないことを、そのしるしを、天下に明にしたかつた。そして二人の愛情の関係自体も。皇孫だから。そして、愛人なのだから。女帝は法王といふ極めて的確な言葉に気付いて喜んだ。
法王の月料は天子の供御《くご》に準じ、服食も天子と同じものだつた。宮門の出入には鸞輿《らんよ》に乗り、法王宮職が設けられ、政《まつりごと》は自ら決した。それはすべて女帝が与へた愛情のあかしであつた。名にとらはれる女は、然し、更に実質の信者であつた。名は、そして、人の口は、女帝はすでに意としなかつた。事実はたゞ一つ。道鏡は良人であつた。
道鏡は堕落の悔いを抑へることができてゐた。女帝の女体は淫蕩だつた。そして始めて女体を知つた道鏡の肉慾も淫縦《いんじゆう》だつた。二人は遊びに飽きなかつた。けれども凛冽な魂の気魄と気品の高雅が、いつも道鏡をびつくりさせた。それは夜の閨房の女帝と、昼の女帝の、まつたく二つのつながりのない別な姿が彼の目を打つ幻覚だつた。夜の女帝は肉体だつたが、昼の女帝は香気を放つ魂だつた。
彼は夜の淫蕩を、昼の心で悔いることができなかつた。なぜなら女帝の凛冽な魂の気魄が、夜の心を目の前ではつきりと断ち切つてしまふから。彼の魂は高められ、彼の畏敬はかきたてられた。それは女ではなかつた。偉大にして可憐にして絶対なる一つの気品であり、そして、一つの存在だつた。
そして夜の肉体は、又、あまりにも淫縦だつた。あらゆる慎しみ、あらゆる品格、あらゆる悔いがなかつた。すべては、たゞあるがまゝに投げだされ、惜しみなく発散し、浪費し、行はれ、つくされてゐた。それ自体として悔い得る何物もあり得なかつた。惜しまれ、不足し、自由ならざる何物もなかつた。涙もあつた。溜息もあつた。笑ひもあつた。歓声もあつた。力もあつた。放心もあつた。悲哀もあつた。虚脱もあつた。怒りもし、すねもし、そして、愛し、愛された。
道鏡の堕落の思ひは日毎にかすみ、失はれた
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