で忠勤をはげみ、その報酬に官位の昇進を受けてゐた。彼等は面従腹背を人の当然の行為であると信じてゐた。彼等はむしろ押勝よりも悪辣であり老獪であり露骨であつた。百川は道鏡をしりぞけてのち、自分の好む天皇をたてる陰謀に成功した。更にその後、皇太子の廃立に成功したが、彼のすゝめる親王を天皇は好まなかつた。その天皇を責めたてゝ、四十余日、夜もねむらず門前にがんばりつゞけ、喚きつゞけて、天皇を根負けさせてゐるのであつた。
 彼等はむしろ押勝以上に策師であり、智者であり、陰謀家であり、利己主義者であり、かつ、礼節も慎みもなかつたから、押勝の専横に甘んじて、その下風に居すはる我慢がなかつたのである。
 彼等の共同の目的は、押勝の失脚だつた。すると、そこへ、思ひもうけぬ好都合の人物が登場してきた。それが弓削道鏡《ゆげのどうきよう》であつた。

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 道鏡は天智天皇の子、施基《しき》皇子の子供であり、天智天皇の皇孫だつた。
 道鏡は幼時|義淵《ぎえん》に就て仏学を学び、サンスクリットに通達してゐた。青年期には葛木山《かつらぎやま》に籠つて修法錬行し、如意輪法、宿曜秘法《すくようのひほう》等に達し、看病薬湯の霊効に名声があつた。その法力と、仏道堅固な人格と、二つながら世評が高く、内裏の内道場に召されたのだ。
 彼の魂は高邁だつた。その学識は深遠であつた。そして彼は俗界の狡智に馴れなかつた。小児の如くに単純だつた。荒行にたへたその童貞の肉体は逞しく、彼の唄ふ梵唄はその深山の修法の日毎夜毎の切なさを彷彿せしめる哀切と荘厳にみちてゐた。彼はすでに押勝に劣らぬ老齢だつたが、その魂の、その識見の、その精進の厳しさによつて、年齢のない水々しさが漂つてゐた。
 天皇はいつ頃からか、道鏡に心を惹かれてゐた。
 天皇はすでに位を太子に譲り、上皇であつた。然し、新帝の即位は名ばかりで、政務は上皇の手にあつた。
 六代の悲しい希ひによつて祈られてきた宿命の血、家の虫のあの精霊が、年老いた女帝の心に生れてゐた。その肉体は益々淫蕩であつたけれども、その心には、家の虫の盲目的な宿命の目があたりを見廻し、見つめてゐた。
 色々のことが分つてきた。見えてきたのだ。家の虫の盲目的な宿命の目によつて。
 新たな天皇と太政大臣押勝は一つのものであつた。新帝は、彼女のものでもなく、国のものでもなく、押勝の天皇だつた。さういふことが分るのは、押勝と彼女の間に距離が生れてきたからであり、そして彼女は距離をおいて眺める心も失つてゐた我身の拙さに気がついた。
 上皇は家に就て考へる。いや、家の虫が、我身に就て考へるのだ。彼女は押勝を考へる。臣下と、つまり、たゞの男と、どうしてこんな悲しいことになつたのだらう。我身の拙さ、切なさに堪へがたかつたが、その肉体のいぢらしさ、わが慾念のいとしさに、たまぎる思ひがするのであつた。
 彼女は押勝がいやらしかつた。一時に興ざめた思ひであつた。我身のすべての汚らはしさも、押勝一人にかゝつて見えた。押勝はたゞ汚さが全てのやうに思はれた。
 上皇は道鏡に就て考へる。静かな夜も、ひつそりと人気の死んだ昼ざかりにも。彼女は強ひて、その肉体は思ひだすまいとするのであつた。そして、実際、その肉体を思はずに、道鏡に就て考へてゐることがあつた。その識見の深さに就て。その魂の高さに就て。その梵唄の哀切と荘厳に就て。その単純な心に就て。さういふ時には、時々、深く息を吸ひ、そして大きく吐きだすやうな静かな澄んだ心があつた。けれども思ひは、たゞそれだけでは終らなかつた。そして最後に、上皇は身ぶるひがする。すると、もはや、暫く何も分らなかつた。彼女は祈つてゐた。然し、より多く、決意してゐた。それは彼女の肉体の決意であつた。
 あの人ならば。なぜなら、彼の魂は高く、すぐれてゐた。そして、識見は深遠で、俗なるものと離れてゐた。
 だが、何よりも、彼は天智の皇孫だつた。臣下ではなく、王だつた。それを思ふと、すでに神に許された如く、彼女の女の肉体はいつも身ぶるひするのであつた。

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 宝字五年、光明太后の一周忌に当つてゐたので、八月に、上皇は天皇をつれて薬師寺に礼拝、押勝の婿の藤原|御楯《みたて》の邸に廻つて、酒宴があつた。
 忌を終り、十月に、保良《ほら》宮に行幸した。天皇も同行し、道鏡も随行した。押勝は都に残つた。
 すでに上皇の肉体は決意によつて、みたされてゐた。上皇の保良宮の滞在は、病気の臥床の滞在だつた。道鏡のみが枕頭にあり、日夜を離れず、修法し、薬をねり、看病した。そして上皇は全快した。彼女の心はみたされたから。長い決意がみたされてゐたから。
 上皇はわづかばかりの旅寝の日数のうちに、世の移り変りの激しさに驚くのだ。それは冬雲の走る空の姿
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