り、天智の生母、舒明の皇后であり、孝徳はその弟、天智の叔父に当る。
この時まで女帝といふことは推古の外には例がない。然し、この時には女帝に意味があるのではなく、中大兄皇子(天智天皇)が自らの意志によつて皇太子であつたところに意味があり、皇子は大改革、むしろ天下支配の野心のもとに、その活躍の便宜上、ロボットの天皇を立て、自らは皇太子でゐたものだ。その腹心は鎌足であり、全ては二人の合議の上で行はれたものであつた。
自分自ら号令を発しても威令は却々《なかなか》行はれるものではない。一つの神格的な天皇といふものを自分の一段上に設定する。そして自分の号令を天皇の名に於て発令し、自分自身がその号令に服して見せる。そして、自分が服したことによつて、同じ服従を庶民に強制するのである。この方法は平安朝の藤原氏が、武家時代の鎌倉政府が足利氏が、そして昭和の今日には軍閥政府が、行つたところである。天皇はロボットであつた。その号令は天皇の意志ではなしに、藤原氏の、鎌倉幕府の、軍閥政府の意志であつた。然し、彼等は天皇の名に於て自らの意志を行ふ。そして自ら真ッ先にそれに服従することによつて、同じ服従を万民に強要するのである。これは利巧な方法であつた。そして、この原形を発案したのは中大兄皇子であつた。皇子は、皇極、孝徳、斉明三天皇を立て、自らは皇太子として、大改革に着手した。
従つて皇極(斉明)といふ女帝は中大兄皇子のロボットであり、女帝自体に意味はなかつた。女性時代ともいふべき女帝時代は持統天皇から始まる。
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天武天皇崩御のとき皇太子(草壁皇子)がまだ若かつたので(当時は幼帝を立てる例がなかつた)皇太后が摂政した。三年の後、皇太子も亦|薨《こう》じ、その子|珂瑠《かる》皇子は極めて幼少であつたから、皇太后が即位した。持統天皇であつた。
持統天皇の在位は皇孫珂瑠の保育にあつたが、太政大臣に高市皇子を任じ、補佐するに葛野王《かどののおおきみ》あり、家族政府として極めて鞏固《きようこ》な団結であつた。持統天皇が強烈沈静の性格の持ち主であつたことは、彼女が自らの遺言によつて、天皇の火葬の始めであることによつても考へられる。
死後の世界は、今日科学によつて死後の無を証明せられてすら、尚我々の知性に於てもその空想と恐怖から解放されてはゐない、原形のまゝ地下に横はり他日
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