天皇だつた。さういふことが分るのは、押勝と彼女の間に距離が生れてきたからであり、そして彼女は距離をおいて眺める心も失つてゐた我身の拙さに気がついた。
 上皇は家に就て考へる。いや、家の虫が、我身に就て考へるのだ。彼女は押勝を考へる。臣下と、つまり、たゞの男と、どうしてこんな悲しいことになつたのだらう。我身の拙さ、切なさに堪へがたかつたが、その肉体のいぢらしさ、わが慾念のいとしさに、たまぎる思ひがするのであつた。
 彼女は押勝がいやらしかつた。一時に興ざめた思ひであつた。我身のすべての汚らはしさも、押勝一人にかゝつて見えた。押勝はたゞ汚さが全てのやうに思はれた。
 上皇は道鏡に就て考へる。静かな夜も、ひつそりと人気の死んだ昼ざかりにも。彼女は強ひて、その肉体は思ひだすまいとするのであつた。そして、実際、その肉体を思はずに、道鏡に就て考へてゐることがあつた。その識見の深さに就て。その魂の高さに就て。その梵唄の哀切と荘厳に就て。その単純な心に就て。さういふ時には、時々、深く息を吸ひ、そして大きく吐きだすやうな静かな澄んだ心があつた。けれども思ひは、たゞそれだけでは終らなかつた。そして最後に、上皇は身ぶるひがする。すると、もはや、暫く何も分らなかつた。彼女は祈つてゐた。然し、より多く、決意してゐた。それは彼女の肉体の決意であつた。
 あの人ならば。なぜなら、彼の魂は高く、すぐれてゐた。そして、識見は深遠で、俗なるものと離れてゐた。
 だが、何よりも、彼は天智の皇孫だつた。臣下ではなく、王だつた。それを思ふと、すでに神に許された如く、彼女の女の肉体はいつも身ぶるひするのであつた。

          ★

 宝字五年、光明太后の一周忌に当つてゐたので、八月に、上皇は天皇をつれて薬師寺に礼拝、押勝の婿の藤原|御楯《みたて》の邸に廻つて、酒宴があつた。
 忌を終り、十月に、保良《ほら》宮に行幸した。天皇も同行し、道鏡も随行した。押勝は都に残つた。
 すでに上皇の肉体は決意によつて、みたされてゐた。上皇の保良宮の滞在は、病気の臥床の滞在だつた。道鏡のみが枕頭にあり、日夜を離れず、修法し、薬をねり、看病した。そして上皇は全快した。彼女の心はみたされたから。長い決意がみたされてゐたから。
 上皇はわづかばかりの旅寝の日数のうちに、世の移り変りの激しさに驚くのだ。それは冬雲の走る空の姿
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