種であつた。
安宿は天性の麗質であり怜悧であつた。年齢も亦首皇子に相応し、生れながらにして、天皇の夫人たるべき宿命をあらはしてゐたけれども三千代は更に一つの慾念があつた。それは彼女の一世一代の慾念だつた。三千代はすでに年老いてゐた。その一生は誠心誠意、たゞ忠誠を事として、不当の私慾をもとめたことはない。その長男、葛城王は臣籍に降下して橘諸兄となり、大臣となつたがそれは自然の成行で、そして諸兄は温良忠誠な大臣だつた。けれども三千代は年老いて、今、やみがたい一代の慾念をどうすることもできない。それは安宿を夫人でなしに、皇后にしたいといふことだつた。
そして安宿はその母なる一代の才女によつて、天下第一の女人の如くに教育された。当然首皇子の夫人であり、やがて、どうあらうとも皇后であらねばならぬ悲願をこめて育てられた。麗質は衣を通して光りかゞやき、広大な気質と才気は俗をぬき、三千代の期待の大半は裏切られる何物も見出すことができなかつた。
女支配者の沈静な心をこめ夢を托して育てあげられた首皇子は、その沈静な女たちの心情によつて厭はれるものを厭ひ、正しとするものを正しとする心情を与へられてゐた。その沈静な女たちの心情が厭ふものは淫乱であり、正しとするものは信仰であつた。
元明天皇が首皇子に安宿を与へるとき、特に言葉を添へて、これは朝家の柱石であり、無二の忠臣であり、主家のためには白髪となり、夜もねむらぬ人の娘なのだから、たゞの女と思はずに大切にするやうに、といふ言葉があつた。
然し、そのやうな言葉すらも不要であつた。皇子の心はすべてに於て安宿によつて満たされた。美貌と才気は言ふまでもなかつた。特にその魂の位に於て。天下第一の魂の位に於て。
まさしく二人は、そのやうに希はれ、祈られ、夢みられて、その如くに育てあげられた無二の二人であつた。首皇子を育てたものは、その祖母と伯母の外に、更により多く三千代であつた。そして三千代は首皇子を念頭に常に安宿を育てゝゐた。首皇子はその幼少に三千代にみたされて育つた翳を、より若く、より美しい安宿の現実の魅力の中で、思ひだし、みたされてゐた。曾《かつ》て四囲の女人達に吹きこまれてゐた天下第一の身の貫禄を、安宿の自然の態度の中に見出して、その各々が、より高くみたされることが出来るのであつた。
天平十八年、大仏の鋳造に当つて「天下の富をたも
前へ
次へ
全24ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング