は元明の娘であつた。
 二人の幼帝の成人を待つ三人の老いたる女は同じ血液と性格を伝承し、ひたすら家名の虫の如き執拗な意志を伝承してゐた。時代と人は変つても、その各々の血と意志に殆ど差異はなかつたのだ。
 家名をまもる彼女等の意志は、男の家長の場合よりも鞏固であつた。なぜなら、彼女等の自由意志は幼帝を育てるといふ事柄のうちに没入し、彼女等の夢の全てがたゞ幼帝の成人に托されてゐたからである。女達がその自由意志、欲情を抑へ、自ら一人の犠牲者に甘んじて一つの目的に没頭するとき、如何なる男も彼女等以上に周到な才気と公平な観察を発揮することはできないものだ。
 史家は三千代を女傑といふ。意味にもよるが三千代はたぶん策師ではなかつた筈だ。なぜなら私情を殺した女の支配者の沈静なる観察に堪へて最大の信任を博したのだから。彼女は貞淑であり、潔癖であり、忠実であつたに相違ない。もとより、すぐれた才気はあつたが、善良であつたに相違ない。温和であつたに相違ない。
 沈静な女支配者の周到な才気と観察の周囲には男の策略もはびこる余地はなかつた。大臣は温和であつた。藤原不比等は正しかつた。彼等は実直な番頭だつた。すべての意志が、天皇家の家名のために捧げられ、一途に目的を進んでゐた。

          ★

 これらの痛烈な意志を受けて、その精霊の如くに、首皇子は成長した。聖武天皇であつた。
 その皇后は三千代と不比等の間にできた長女の安宿《アスカ》であつた。全身は光りかゞやく如くであつたから、光明子とよばれ、又光明皇后ともよばれた。天皇と同じ年齢だつた。まだ皇太子のころ、元明天皇が選んで与へたものだつた。
 そのときまで、皇后は内親王、王女に限るものとされ、臣下の女は夫人以上にはなり得ない定めであつた。聖武天皇即位六年の後、五位以上、諸司の長官を内裏に集めて、光明皇后|冊立《さくりつ》を勅せられたが、他に何人かの意志があつたにしても、最も多く聖武天皇の意志であつたに相違ない。なぜなら、光明皇后を何物にもまして熱愛してゐたからであつた。
 安宿は天下第一の女人の如くに教育された。それは三千代の悲願であつた。不比等の女(三千代の腹ではない)宮子は入内《じゆだい》して文武天皇の夫人となつた。文武天皇は妃も皇后もめとらず、宮子は実質上の皇后だつたが、天皇は二十五で夭折した。首皇子即ち聖武天皇はその一粒
前へ 次へ
全24ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング