いました。私は自動車でしたが、彼は歩いてました。私は目をそらして、素知らぬ顔で通過しました」
「一服君はあなたに気づいたのですか」
「存じません。私はとッさに目をそらしたから」
「それから」
「アトリエはすぐ分りました。大鹿さんは私を見ると、今、一服氏が帰ったばかりだと言いましたよ。私は彼をひやかしてやりました。葉子夫人が来るから、ソワソワ、落着かないでしょうねッて」
「彼は、葉子さんと岩矢氏が一しょの汽車で、十時四十七分に着くことを知ってますか」
「私がそれを言ってやりました。一しょに来るなんて、変テコねッて。そして、専売新聞の記者が駅に待ち伏せているッて言ってやったら、ギョッとしたわね。でも、到着の時間は教えてやりませんでした。なぜなら、私が出迎える必要がありましたからね。そして、もう着いたころよ、とごまかしておいたんです」
「ラッキーストライクと契約を結んだ話をしませんでしたか」
「私は訊いてみましたが、彼は言葉をにごして、返答しなかったのです。しかし、私には分りました。彼の態度に落着いた安心がみなぎっていたので、契約に成功したな、と分ったのです。昼、会った時は、心痛のために、混
前へ 次へ
全60ページ中40ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング