。私たちが京都駅へ着いたのは午後十時四十七分で、一時間と四十五分しか、間の時間がないのです。自動車で往復してギリギリで、ほとんど余裕がありません。岩矢の姿が見えないので、アッと、後を追おうとすると、上野さんが私の腕をつかんで引き留めました。行かせてくれないのです。私はしかし岩矢の急ぐ理由が、ただ汽車の時間のためだと信じていましたので、大きな不安はもちませんでした。そして、上野さんの命のまま、駅にちかい喫茶店へはいりました」
「何か話があったのですか」
「上野さんは、私に、大鹿さんとの結婚をやめなさい、と仰有るのです。大鹿さんはチェスター軍の灰村カントクに義理もあり、チェスターとの契約に特殊事情もあるので、お金に目がくらんで他の球団へ移籍すると、聯盟の問題になり、出場停止はおろか、プロ球界から葬られてしまうと仰有るのです。恋愛のために大鹿さんが野球界から捨て去られてしまうのを見るに忍びないから、忠告にきたと仰有るのです。でも、私は、大鹿さんから、うかがって、知っていました。大鹿さんは灰村カントクに育てゝいただいた義理はありますが、チェスターとの契約は一シーズンだけで、今度のシーズンの契約は、まだ取極めていなかったのです。私はそれを主張して、上野さんと争論になりましたが、果しがないので、立上りました。そんなことで、二三十分、費したでしょう。そして私は自動車を拾って、ここへ一人できたのでした」
「この隠れ家を知ってるのは誰々ですか」
「二人のほかに、私が教えてあげたのは、煙山さんと、岩矢だけ、あとは心当りがありません」
 ところが母屋の葉巻太郎が、意外な証言をした。
「今夜九時ごろでした。一服さんがウチの玄関へきて、ここに大鹿さんが泊ってるだろうと仰有るのです。私がアトリエへ案内してあげました」
「一服って、どんな人だね」
「ピースの左腕剛球投手、一服さんですよ」
「アッ。そうか。そして、そのほかに、訪問客はなかったのですか」
「それは分りません。一服さんは、ウチへきてお訊きになったから、分ったのです。さもなければ、かなり離れていますし、木立にさえぎられていますので、アトリエの様子は分らないのです。それに冬は、日が暮れると、雨戸をしめてしまいますから」
「何か変った物音をききませんでしたか」
「何もききません。よく睡っていましたから」
 そこで所轄署に捜査本部をおき、屍体を検視して現場は鑑識員の徹底的な調査と、それから、家探しが行われた。
 判明した事実で、特に注目すべきところは、次のようなものだった。
 一、大鹿はラッキーストライクと新契約し、三百万円受取ったらしいが、その三百万円は紛失している。
 一、契約書は俯伏した胸の内ポケットにあり俯伏していたので、血によごれていないが一月十九日に契約したものである。大鹿の署名は墨筆で書かれているが、この部屋には、墨汁も毛筆もない。
 一、出血の状況から見て、加害者の衣服は血を浴びているであろう。
 一、刺傷によって判ずるに犯人は相当の腕の力があるらしい。
 一、大鹿のズボンのポケットに、上野光子の名刺があり、東京の住所は印刷してあるが、京都のアパートの所番地が鉛筆で書きこんである。光子自身の手らしく、女手である。
 一、血にぬれた靴跡と手型があるが、被害者のものでもなく、葉子のものでもない。
 一、テーブルの上に、ドンブリを灰皿の代りにして、二三本の外国タバコの吸いガラがあり、二本には口紅がついており、一本にはついてない。
 一、しかし、来客に湯茶を接待した形跡はない。
 一、被害者の指紋は諸方にあるが、ほかに特に注目すべき指紋は見当らない。
 一、兇行時間は、警察医の検視によっては午後九時より十二時ごろまでの間とあり、尚正確には解剖にまつ筈である。
 まだ夜の白々明けという時刻に、刑事は一服投手の寝込みを襲って、捜査本部へ連行した。また、名刺に書かれたアパートから、上野光子が連行されて来た。
 二人の部屋は、それぞれ捜査したが、血のついた衣類や、紛失した札束は発見されなかった。
 ほかに捜査本部で捜しているのは煙山と岩矢天狗であるが、まだ煙山の宿は、彼らに知られていないのである。
 まず一服が取調べをうけた。
 捜査の主任は京都にその人ありと知られた名探偵、居古井《いこい》警部である。
「君は昨夜、大鹿君のところへ行きましたね」
「ええ。お午《ひる》すぎ、一時ごろから、夜の九時ごろまで探してとうとう彼の隠れ家を突きとめたんですからね」
「夕飯もたべないで」
「それは食べましたよ」
「どうして、そうまでムリして探す必要があったんですか」
「一時も早く解決したい問題があったんです。ボクは上野光子にプロポーズしたんですが、お光は大鹿と結婚したいと云うんです。そこで大鹿の本心をきく必要があった
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