「ハア。そうかい。こッちは一向に元気がもどらねえや」
 と、それでも車をとばして駅へ行ってみたが、急行列車は時間キッチリついて、もとより、急行から降りた客が、今ごろうろついている筈がない。
 二人は宿をとって、まさにヤケ酒をのむこととなってしまった。

   その四 殺人事件

 おそらく二人がまだヤケ酒をのみ終らない時刻であったろう。
 午前二時半ごろであった。
 大鹿にアトリエをかしている葉巻家の庭に面した廊下の雨戸をたたいて、助けをもとめる女の声が起った。葉巻太郎、次郎の兄弟が雨戸をあけると、立っているのは血まみれの暁葉子である。
「アッ。暁さん。どうしたんですか」
「大鹿さんが、殺されています」
「エッ。あなたは、どうかなさったんですか。どこか、おケガを」
「いいえ、私、気を失って、倒れてしまったのです。今まで気を失っていました。はやく、警察を」
 そこで、警察の活動となったのである。
 アトリエは二間半に三間の洋室が一間だけ。ほかに手洗い場と便所が附いているだけだ。ベッドと、洋服ダンスと、机と、テーブルに椅子が三つある。(図面参照)
[#アトリエ内の配置図(fig43190_02.png)入る]
 大鹿は戸口から一間ぐらいのところから、斜、中央に向って俯向きに倒れている。傷はいずれも背後から鋭利な刃物で突かれたもので、背中に四ヵ所、頸《くび》一ヵ所、メッタ刺しにされている。
 あたりは鮮血の海であった。壁から天井まで、血しぶきがとんでいる。
 暁葉子は訊問に答えて云った。
「私がここへ来ましたのは、午前零時ちょッと過ぎたころと思います。入口の扉には鍵がかかっていませんでしたが、アトリエの灯は消えていました。私は、しかし、扉をあけて、はいった右側にスイッチのあるのを知ってますから、すぐ電燈をつけました。私は室内を一目見て、茫然としました。駈けよって、ちょッと抱き起そうとしたように覚えています。もう大鹿さんの死んでいることに気付いて、私はその場に気を失ってしまったのです。ふと、我にかえって、葉巻さんの庭の雨戸をたたいたのです」
 たしかに葉子は血の海のなかに倒れていたに相違なかった。衣服も、顔も手も、血まみれであった。
「ハテナ。誰か屍体につまずいたのかな。ここに血にぬれた手型がある。あなたは、つまずきやしなかったでしょうね」
「私はつまずきません。すぐ灯をつけましたから」
「なるほど。女の掌ではないようだ。被害者の掌よりは、小さいが」
 たしかに、誰か、手型と、靴の跡とを残して逃げた者があった。
「暁さんは、タバコ、吸いますか」
「いいえ。大鹿さんも、タバコはお吸いになりません」
「なるほど。だから、灰皿の代りに、ドンブリを使っているのだな。しかし、たしかに、少くとも一人の男と、一人の女がタバコを吸っている。男が、一本。女が、二本」
 犯人は、彼だ。葉子は、すぐ、思った。しかし、タバコを吸った女というのは誰だろう。上野光子だろうか。
 葉子は警官に打ち開けた。
「私は犯人を知っています。あの人に相違ありません」
「あなたは見たのですか」
「いいえ。私と一しょに、東京から来たのです。私の良人の岩矢天狗です」
「一しょに、ここまで来たのですか」
「いいえ、京都駅まで、一しょでした。私は岩矢と離婚して、大鹿さんと結婚することになっていました。大鹿さんは私の手切れ金として岩矢に三百万円渡すことになっていました。明日の正午に受取ることになっていましたが、岩矢は明日の午後三時にある人に支払いする必要があって、今夜のうちに、金が欲しいと言いだしたのです。私は今日の夕方、煙山さんが大鹿さんに三百万円渡したことを知ってますし、岩矢の態度には変ったところがなく、彼の欲しいのは金だけで、ほかに含むところがない様子を見てとりましたから、それでは、今夜のうちに大鹿さんからお金をいただきなさい、いっしょに隠れ家へ行きましょう、と、なんの気なしに、隠れ家も教えました。青嵐寺の隣のアトリエと云えば、すぐ、のみこめる筈です。青嵐寺は有名な寺ですし、隣家は一軒しかありません。私は、できるだけ早く手切金を渡して、ツナガリを断ちたい気持がイッパイですから、まさかに、こんなことになろうとは思わず、教えてしまったのです」
「なるほど。お二人は、一しょにここへ来たのじゃないのですか」
「一しょに来るはずでした。京都駅へ降りて、改札をでると、私をよびとめた人がありました。見知らぬ女の方ですが、上野光子というプロ野球のスカウトですと自己紹介なさったのです。私たちが立話をしているうちに、イライラしていた岩矢は、いつのまにか、姿が消えていました。私は彼の急ぐ理由を知っていました。明日の三時までに横浜に戻るには、零時三十二分発の東京行以外にありません。それが最終列車です
前へ 次へ
全15ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング