あつた。さうして、名刺を受取るために、一本の指を差出さうとすらしなかつた。「では、ちよつと、調べてきます」彼は思ひきつて、言ひ、僧房の奥へ消えた。
 まもなく彼は出てきたが、やつぱり、ないと言つた。
「明治時代にそんなものを出版したこともあつたさうですけど」
「いゝえ、昭和四年です。現に、下の門番も知つてゐますよ」
「それは何かの間違ひでせう」
 私はあきらめた。さうして、上の天主堂へ登つてもいいかときいた。どうぞ、御自由に、と彼は答へた。私は彼に別れて天主堂へ登る。現存する日本最古の天主堂。国宝建造物である。疑ひは神の子にあり、私は呟きながら、天主堂の扉をくゞつた。
 この天主堂は千八百六十五年(慶応元年)二月十九日落成した。その年の三月十七日のことであつた。正午頃十四五人の男女が訪ねてきたが、常の見物人とは何やら様子が変つてゐるので、プチジャン神父は彼等を堂内へ伴ひ入れ、ひそかに彼等の様子を見てゐると、彼等はマリヤの像を認め、あゝ、サンタマリヤと口々に叫ぶや跪いて祈念の姿勢をするではないか。さてこそ三百年の禁令をくゞりぬけた切支丹の子孫であつたかとプチジャンは狂喜し、いづこの人々で
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