申は天人にて御座候其分可有御心得候
一加津佐村の寿庵と申人も則天人の御供なされ候間寿庵手前より先々へ遣申候
つまり、島原半島には農民一揆の気運がたかまり、天草島では切支丹反乱の準備がすゝんでゐた。一揆は島原半島で爆発したが、農民だけでは収まりがつかなくなつて、天草の切支丹組に助勢をもとめ四郎を大将として原の廃城にたてこもることゝなり、一揆は、切支丹の色が濃くなつた。結局、最後には、切支丹反乱の形態になつたのである。
徳川時代には、島原の乱といへば、切支丹騒動と一口に言つた。ところが、明治以後には、農民一揆と訂正され、切支丹の陰謀が不当に忘れられようとしたのである。これは一に教会側の宣伝と、切支丹学者の多くがキリスト教徒であるため、切支丹に有利な解釈をとりがちであつた為である。コレアの手記に拠る限り、島原の乱は純然たる農民一揆の如くであるが、コレアの手記に偏して日本の記録を無視することは不当である。コレアの手記はむしろ、参考にとゞまるものでしかあるまい。
私が長崎図書館を訪れたとき、館長は、貴重な資料の蒐集をとりだして説明してくれたが、そのなかに、これは教会側の記録ですが、と言
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