かといふと、次兵衛は何か事あるとき、刀の鍔に手をあてゝ、何事か思入れよろしくやるのが例であつた。その鍔に切支丹妖術の鍵があると思はれたのである。多分刀の鍔に十字架でもはめ込んでゐたのだらうと言はれてをり、現にさういふ拵への刀が発見されてゐるといふことである。そこで金鍔次兵衛の名が生れた。一六三七年、長崎郊外の戸町番所に近い山中の横穴に住んでゐるのを密告によつて捕へられ、十二月六日、穴に吊るされて死んだ。十二月六日のくだりを記録によつて調べると、原城では十二月朔日に立籠《たてこも》つた一揆軍が矢狭間《やはざま》を明け堀をほり、この工事が完成して妻子を城内へ引入れた日であり、その翌日には天草甚兵衛が手兵二千七百をひきつれて入城してゐる。一方、討伐の上使松平伊豆守は、やうやく箱根を発足し神原に泊つた日であつた。箱根は終日豪雨であつたさうだ。然し、次兵衛の死んだ十二月六日はパジェスの記事によつたもので、太陽暦であり、日本の記録は太陰暦による日附であるから、同じ日でない。十二月六日は、多分、陰暦の十月十四日に当るのであらう。とすれば、島原一揆の起る直前で、(一揆の蜂起は十月二十五日)即ち、全然一
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