ふまでもなく、足軽から土民に至るまで、十五歳から六十歳に至る全人口をかり集めたのである。そのうへ、佐賀、平戸、島原の三藩から援軍をもとめ、長崎浦上から大村湾一帯にかけて山関を張り、一歩一人の列を守つて山狩りをはじめたのである。山狩りの味方同志が同志討ちの危険があるので「佐嘉勢|者《は》腰に藁注連《わらしめ》平戸勢者大小鞘に白紙三つ巻島原勢者左の袖に白紙大村勢は背三縫に隈取紙を付け各列を定め出歩之刻限を極め暮に及相図を以て押止り其所に居て篝を焼夜中交替して不寝番を勤往来を改禁す」三十五日かゝつて山の端から端に及び、浦上から海へつきぬけてしまつたけれども、次兵衛を捕へることができなかつた。次兵衛はそのとき早くも江戸へ逐電し、今度は江戸城の大奥へ忍びこんで、お小姓組の間に伝道しはじめてゐたのである。江戸で布教の感化があらはれ、信者がふへたが、役人に嗅ぎつけられて、又、長崎へ舞ひ戻り、一六三五年から三七年まで再び長崎に大騒動をまき起した。切支丹伴天連妖術使ひの張本人(昔の本にはかう書いてある)金鍔次兵衛(次太夫とも云ふ)の名は日本中に鳴りとゞろいてしまつたのである。どうして金鍔次兵衛と呼ばれた
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