潟の当時木橋の万代橋《ばんだいばし》がこはされて河幅がせばめられて鉄の橋が架けられることになり、日本一の木橋がなくなり郷土の自慢が一つへることに身を切られる思ひがしたものであるが、この子供心の奇妙な悲歎は私のみが経験したものではなかつたであらう。そしてかゝる保守的な感傷は農村に於ては大人達の心にすら宿り、それが頑固な片意地にまで発育してゐるのではないかと思ふ。
農村は祖先伝来の土そのものを母胎とし、土そのものに連綿伝来の血が通つてゐるのは農村の性格ではあるけれども、伝統と排他性とを混乱せしめてはならぬ。排他性によつて守られた伝統は純粋なものではなく、不具者であり畸形なるものであつて、正当なる発育を歪め、とゞめてゐる。正しい伝統は当然自ら発育すべきものであるに拘らず、排他的な伝統はこの発育をとどめてをり、日本に於ける農村の伝統的な生活形態とよばれるものは全く排他的性格によつて歪められたものであると言はねばならぬ。民俗学や土俗学の愛好者達が農村の古い習俗に眼を向けて探究をすゝめることは結構であるが、その偏愛の結果が土俗への愛着や保存に向けられるのは奇妙な話であり、発見せられたる畸形の素因は取り除かれ、新しい正当な発育に導かれなければならない。動物園の檻の中の動物のやうに一部の学者や都市人の観覧のために旧態を墨守するのは途方もない話で、然し、農村自体の感情のうちにも自ら動物園の動物化を招いてゐる反進歩性が牢固として存在することも見逃せぬ。
小学生の私が木橋の万代橋がこはされるのに悲しい思ひをしたなどとは滑稽千万な話であるが、この滑稽が今日農村の諸方にまだ頻りに行はれてはゐないか。広い視野をもつて自らを省れば、この滑稽にはすぐ気のつく性質のものであるのに、農村の視野にはベールがかゝつてゐるのである。このベールを取りのぞくことが第一だ。それには素直な心がいる。人を信頼しなければならぬ。だまされることを怖れるな。自らの誠意によつて人を屈服せしめるだけの自覚がなければならぬ。
農村の排他性は私はむしろ悪徳であると考へてゐる。彼等は「だまされた」といふけれども、彼等が人を信頼することを知らないところに病根があるのだと考へてゐる。彼等は自分以外の人々はもつと悪質だと想像して、実は他の誰よりも悪質なことをする。彼等はその言訳に他の連中はもつと悪い事をしてゐるのだときめこんでをり、
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