に進歩も向上も有り得ない。
 その失敗に負けて一生が破綻してしまうような無自覚な生き方がダメなので、失敗を成功の母とし、向上のフミキリとする自覚的な生き方を持たねばならぬ。生活の向上はこのようにして行われる。
 男女の交際とか恋愛とか、そのようなものは各人がその個性と生活環境に応じて行うべきもので、フヘン的な法則などは有るべきものでなく、それ故にこそ如何に生くべきかということが常に各人の問題となるのである。
 日本のような貧乏国では、これから立直るにしても、決して各人が余裕ある生活などはできないだろう。その我々が生活程度の高い外国の風習をとりいれても片チンバになるのは当然で、とり入れるならその片チンバを覚悟の上で、そこから起るかも知れぬ破綻を自覚の上でやるべきだろう。

          ★

 ダンスに罪ありと云うが、別にダンス自体に罪のある筈はない。とり入れ方が不用意のせいで要は教養が不足のせいだ。何物も禁止する必要はない。たゞ受け入れる側の用意、つまり教養、自覚内省の確立せられた足場をつくることに重点をおかねばならぬ。
 昔から、道楽者に限って、子女の道楽を気にやみ、あれをするな、これをするなオセッカイな説教屋になりがちなものだ。
 それというのが、道楽者はわが生き方として、如何に生くべきか、その地盤の上で遊んだわけではなく、低俗な感傷や、程よい風流心、享楽好きの本能や、持ち合せの財産によって遊んだのだから、男女関係を罪悪感で知っているにすぎないのである。
 道楽者の道義感は日本伝統の道義感で、処女を失うと一切の純潔を失うような、極度に肉体そのものゝ考え方しかできない。そのような肉体的な道義感に裏づけられていたから、男女の交際というとイヤでも肉体、さっそく肉体、却って親たちの歪んだ道義感が肉体的な交際をかりたてゝいたようなものだ。
 若い人たちというものは、道楽者の道義感と違って、みんな胸にともかく理想の光を宿しているものだ。若い者に全部まかしておく方が、親が変に手配するよりも却って無難なもので、悪く気を廻さぬ方がよいものだ。
 終戦後、親たちの権威や道義感が失墜し、青年たちに自律性が現われたことは喜ぶべきことで、先日ダンスホールの支配人の話に、ちかごろのダンサーは無軌道な色慾派と同時に非常に多くの処女がおり、こういうことは戦前のホールになかった現象だという
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