又、あらゆる女は闇の女の素質をもっているのである。まことの知識というものは、先ず内省から始まるもので、そこから、如何に生くべきかという問題がはじまる。日本には内省から始まる知識というものが殆どなく、命令と服従、禁止と許可、鋳型の中で育てられて疑ることも知らず、自分で考えるということを知らないばかりでなく、それがむしろ悪徳とせられていた。
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男女の交際とても、人生万事元は一つで、まず己れを知る生活から始まらなければならない。そして、如何に生くべきか、という事の一つとして行われるべきもので、その根本の確立だけが何より大事なものである。
私は先日パンパンガール諸嬢と会見座談会をやったが、彼女らは勝手に家をとびだしてきた我まゝ娘ばかりで、明るく、快活だった。戦前の娼婦は陰鬱でやたらわが身の悲劇を嘆くことを快とする風であったが、それに比べればパンパンの明るさと快活は娼婦の型としては一つの進歩で、私はむしろ喜ぶべきことだと思った。
親に売られて身売りして悲劇だなどゝ、そんな悲劇があるものか。喜劇である。茶番じゃないか。こんな貧しい茶番はなくなって欲しい。親の横ッ面をひッぱたいて堂々天下をカッポして欲しい。こういう茶番的な悲劇はつまり己れを知る生活がなく、如何に生くべきかという根本の態度が確立されておらぬことによる。
日本には男女交際の歴史がないから、急に男女交際をやると間違いが起りやすいと云うが、これは歴史の有無によることではなくて、自覚的な知識生活が各個人に不足している、つまり各人の教養が低いというのが根本の問題であろう。
如何に生くべきか、生活態度が確立しておれば、そこには下らない悲劇はない。騙された、とか、人の犠牲になった、とか、そういう受け身の新派悲劇は有り得ず、すべては自己の責任に於て行われているから、失敗も、そこから立ち直り伸び上る踏石となり、次の歩みのフミキリとなる。
神ならぬ身には、間違いはある。いくら聡明であっても、世故にたけた悪者には騙されることもあろうし、世馴れぬ同志で予期せざる摩擦を起したり不調和を発見することも有る筈である。如何に生くべきか、いくらその自覚的な生き方が確立されていても、まぬかれがたい失敗に遭遇することは避けがたいものだ。
その失敗を怖れて避け、だから交際は禁止するに限るなどゝ云っては、人間の生活
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