が、若い人たちの生活に自律性が現れ自我の責任に於て万事を行うようになれば、こういう現象が起るのは当然で、道楽親父の道徳派がダンスは国を亡すなどゝは大間違い、人間の生活の向上は、こんなところから、こんな風に現れてくるものなのである。
私は若い人たちが好きだ、若い人たちはみんな正義を愛し真理を愛し自我の向上を心がけているものだからだ。若者はいつの時代もそういうものだ。
けれども年と共に正義感は衰え、向上心は失われ、世間ずれのした不平家や、悟りすました大人になってしまう。
だから又若い人々は自己の胸に宿る正義感や真理愛や向上心を過信してはいけない。それは若さというものに自然に宿ったいわば本能的なものにすぎないからで、決して努力によるものではない。処女が本能的にその純潔を守ろうとすることゝ同じことで、そこまでは本能にすぎないのである。
私自身の一生をふりかえって判断して、青春時代はひどく暗いものであり、重たいものである。つまり生命力とか希望に溢れるということは、同じ程度の絶望や失意や未来の恐怖に溢れていることでもあって、如何に生くべきか、それを思いめぐらして、楽天的でありうるものではない。
だから又、青春とはひどく疲れているものであり、えゝ、どうにとなれ、ひどくステバチな気持になり易いものである。私自身が幾度ステバチになったか知れず、そんな時に魂の高さをもった女友達があることが、起き上る力になってくれるものであった。
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然しそういう若い男女の交際というものは極めて夢幻的なもので、男も女も相手をその有るまゝに見ているわけではなく、自分の理想を投影して眺めており、したがって相手が自分に投影している理想の男や女に自分もなろうとするハタラキもあるけれども、他面にはひどく疲れるものである。
それを恋愛とよぶなら、青春の恋愛は超現実的な夢幻世界で、これもやっぱり本能に属する世界であるにすぎず、その夢はやがて破れ、冷めたい現実が、そのありのまゝの冷めたさでノッピキならぬ姿をつきつけてくるに極っている。
こういう夢幻世界が終ったところから、人生が、生活がはじまってくることを知らなければならない。冷酷な現実ありのまゝのものが人生で、それを土台にした上で、我々の如何に生くべきかという本当の設計が始まることゝなるのである。
若いうちの男女交際、ひいては
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