主主義というから民主主義と思い、それだけのことで、それは要するに架空の観念であるにすぎず、われわれが実際に身をもって知り、また生活しているものは、四囲の現実だけだ。
四囲の現実とはなにか、まず焼け野原である。小さな家屋の唐紙一重にへだてられた雑居生活である。そこでは一本の薪、一片の炭が隣人にかすめ盗られることを憂い、いな、親兄弟が配給の食膳の一握りの多寡《たか》を疑い、子は親に隠して食い、親は子の備蓄を盗み、これをしも魂の荒廃、魂の戦争といわずして、何事が戦争であるか。
一足出れば、殺人電車である。私も一度、その中央に胸を押しつめられ窒息死に致るところで、その恢復に時日を要したことがあり、それいらい、私は電車がすくまで何時間でも待つことにしているが、勤めの人には左様な時間のゼイタクはできないに相違ないから、いやでも決死の覚悟で乗らねばならぬ。扉に外套がひっかかっている、電車が動きだす、外套をはさまれた男は止めてくれ、助けてくれ、と電車とともに走りだす、ホームの人はようやく気づく、気づいたときには男はすでにホームをひきずられている、ホームの人々がワアワア騒ぐが、後部の車掌は平然とホー
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