は厳しく認める必要がある。少数の兇悪事件に耳目をそばだてるよりも、窮乏にたえて敢えて罪を犯さざる多数の同胞への信頼を持たねばならぬ。
料金投函を民衆の勝手にまかせた公衆電話からは、通話数以上の料金が現われたというではないか。各自の責任にまかせれば、かくのごとく、公明正大な同胞の心を信じなければならぬ。いたずらな禁止は、好奇心のもとであり、すべてを各人の責任にまかせるとき、やがて道義はおのずから各人の自覚によって育つものだ。
私はこの現実の日本において、最も大きな罪のもとをなすものは、物資の窮乏をおいては、つぎに、為政者の国民への不信であると考える。自らのみ道義あつく、心正しきものとする為政家ヅラほど浅はか、醜悪なものはない。御身等はこの欠配に死にもせず、痩せもせぬとはなぜであるか。まずそれを考えることである。
私は政治家が、政治家的ルートによって暖衣飽食していることをとがめたいとは思わぬ。むしろ暖衣飽食すべきだと思う。かつての米内大将のごとくに、ゾースイをすすり、国民に範をたれるのも、その人格の高潔なる、まことに有難いことだけれど、しかし、政治は清貧を事とする無策なものでは困るのである。たとえば、さきに餓死した判事のごとき人物が首相となり、窮乏の時であるから遅配に我慢せよ、余が範をたれると称して餓死されては、国民たるもの、降参せざるをえない。無策のシムボルとして自ら清貧の範をたれるのは、政治ではない。その有策のゆえに選ばれ、国民の輿望を担うて策を施すのが、政治家というものだ。
しかし、自分が暖衣飽食する以上、それについての内省を忘れてはならぬ。私は暖衣飽食とはゆかないけれども、千八百円ベースの人々にくらべれば、はるかにゼイタクな暮しをしているであろう。概ね小説家はそうである。闇屋もそうである。飲食店のオヤジも、パンパンも、そうである。そうであるからわれわれは、人々に窮乏に堪えよ、などとは説きはせぬ。もしも私が、読者にむかって、耐乏生活の小説などを書き、ヤミの悪徳を説いたなら、文士としては愧死《きし》すべきことであり、かかる徒輩は文学者として存在しえないものである。
しかるに、政治家のみは、自らは暖衣飽食しながら、国民に向って、ヤミ屋は国賊だといい、千八百円ベースの配給生活に耐えざるものは罪人であるかのごとくいう。かかることを公言して愧死した政治家も官僚もお
前へ
次へ
全8ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング