らず、失脚した政治家もおらぬ。
 千八百円の配給生活では、けっして生きてゆかれぬ。現実はそれを明示しており、判事は餓死し、政治家は暖衣飽食しているではないか。しからば、なぜ、政治政策の基本概念として、千八百円の配給では食ってゆかれぬ、各人がその各人のなにかのルートによって生きのびている、その実際を厳しく承認してかからないのか。
 政治の根本に、現実に即した論理性を欠いているのだ。つまり、全然、人間というものがない。もし、人間というものがあり、人間に即した論理があれば、千八百円の配給では食ってゆかれぬ、しからば各人のヤミやルートは犯罪ではない。そこから出発して、別の政策がなければならぬはずなのである。根本的に別のなにかでなければならぬはずである。
 人間とは何者であるか。政治家は最も多くそれを知ることが必要である。人間とは何者であるか? 衣食足れば礼節を知り、窮すれば罪の子となる。食に窮すれば、子は親に隠れて食い、親は子の備蓄を盗む。これが人間の姿である。孝子は自ら飢えて親を養うというが、これは非凡のことであり、非凡の例を以て凡人にのぞみ訓戒をたれて足れりとするのは、自らの無能無策を稀有な美談をかりてマンチャクするのみのこと、このこと自体悪徳であり、政治家として自らの無能に愧死すべきのみ。
 われわれの現実に、キリストはいらぬ。政治家がわれ等の罪を負うてハリツケにかかったところで、われわれの空腹は救われはせぬ。ただ政治家が厳しく認識して、踏んで立つ唯一の地盤は、道義のタイハイも魂の荒廃も、人間自身に罪があるのではなくて、物資の窮乏甚だしきによってであるという単純極まる一事の認識にすぎない。
 片山前首相が、帝銀事件の犯人について、未曾有の兇悪犯であり、すべてに代えて逮捕せよ、などと警官を激励するのはオコの沙汰と申すべきで、これが警視総監の言ならば当然であるが、首相たるもの、その政策のいたらざるをまずもって三思すべきではないか。
 もとより、戦後の窮乏荒廃であるから、誰が首相になっても、オイソレと埒のあくはずのものではないが、かかる兇悪犯といえども、罪は人間にあるのではなくて、物資の窮乏と現実の荒廃にあることぐらいは、常に当然認識がなくて、一国の首相などとは笑止千万と申さねばならぬ。犯罪あるたびに、わが政治のいたらざるを憂うるのが、まことの政治家であり、それぐらいの自覚
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