焼屍体を投げころがす人々。
 私の見たのはそれだけであるが、外地の特務機関だとか憲兵だとか、芋のように首を斬り、毒薬を注射して、無感動であった悪夢の時間があったはずだ。戦争というまことに不可解な麻薬による悪夢であり、そこでは人智は錯倒して奇妙に原色的な、一見バカバカしいほど健全な血の遊びにふけり麻痺しきっていたのである。
 私は帝銀事件の犯人に、なお戦争という麻薬の悪夢の中に住む無感動な平凡人を考える。戦争という悪夢がなければ、おそらく罪を犯さずに平凡に一生を終った、きわめて普通な目だたない男について考える。終戦後、頻発する素人ピストル強盗の類いが概ねそうで、すべてそこに漂うものは、戦争の匂いなのである。道義タイハイを説く人々は、戦争は終った、という魔法の呪文を現実に信じつつある低俗な思考家で、戦争といえば戦争、民主主義といえば民主主義、時流のカケ声の上に真理も実在していると飲みこんで疑らぬ便乗専一の常識家にすぎない。
 戦争はけっして終っておらぬ。四囲の現実は今こそ戦争中よりも戦争的であり、人々の魂はそれ自ら戦争の相を呈しているではないか。なにゆえか。物がないからだ。衣食足れば礼節を知る。まことに真理は単純であり、その通り、永遠不変の実相なのである。電車が有りあまれば、押せといっても押しはせぬ。物資に事欠くことがなければ、何者が盗むであろうか。昔からそうである。戦争のせいではない。人が物を盗むのは、物に窮しているからである。
 われわれは同胞を信頼しなければならぬ。なぜなら、二合五勺のその又二十数日の欠配、千八百円ベース、この窮乏にあって、われわれはかくも安穏ではないか。暴動一つ起りはせぬ。ピストル強盗と申しても数えるほどのことであり、この万民窮乏の実相から見て、むしろ驚くほど少い犯罪数だと私は思う。
 盗人や殺人強盗というものは、私の青年期の不況時代にも、ずいぶん多かった。不況時代となり、職を失い、窮すれば、平和な時代でも犯罪は絶えない。今は窮乏のドン底時代だから、その数が多く、かつ、戦争という悪夢の中で生育して冷酷さに無感動となったために、いらざる血を見る事件がふえた。そこにハッキリ漂うものは戦争の匂いである。人を憎むべからず、罪を憎むべからず、戦争を呪うべし。それにつけても、この窮乏の実相にもかかわらず、むしろ犯罪は極めて少いということの方を、むしろわれわれ
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