文学として通用してゐたのである。
 徳永直の「はたらく一家」といふのも読んだが、これも、やつぱり、読物だ。私は読物の存在は否定しない。読物といふものが存在し、それが多くの人に(然り、文学などよりも、もつと遥に多くの人に)読まれることは当然なのだがそれを文学だと思つてはいけない。
 文学は報告書ではなく、暴露史でもない。別に変つたものではなく、たゞ人性の真実が語られてゐるだけのことである。ある階級のものではなく、たゞ、人間のためのものだ。
 政治の発見といふけれども、人間の発見が更により以上大切だ。より良き政治といつたところで、政治によつて真実人間の救はれることはあり得ない。
 この地上から貧乏な人だの病気で苦しむ人などがなくなることは望ましいことであるけれども、不幸な人はなくならない。悲しみや切なさや虚しさや苦しみの根はなくなる時がない。こんなことは分りきつたことだ。
 文学はさういふものに解決を与へるやうな大それたものではないので、悲しさだの不幸などゝいふものに元々解決などは有り得ない。毒を以て毒を制すといふが、いはば、まア、魂の病人の鎮痛薬のやうなもので、劇薬だから、病人以外には有害無役かも知れない。私は然し大して利く薬だとも思はないので、まア、せいぜい気休めのオモチャ程度にしか考へてゐない。
 だから私は別段読物を軽蔑してはをらぬので、否、文学といふものを、大したシロモノだとは考へてゐないのだ。たゞ読物は健康人のオモチャであり、文学は病人のオモチャだといふだけのこと、然し、この違ひだけはハッキリさせなければならぬ。
 魂の病人とは何者か。たゞ、人間といふことだ。人間として生きてをり、自我を見つめて生きてをり、自我の真実な生き方を考へてゐる人であるにすぎない。
 文学は、いくら面白くても構はない。ハラン重畳、手に汗をにぎらせ、溜息をつかせても、結構だ。さういふことによつて文学の本質が変化することはない。日本の文学は、面白くなさすぎた。あんまり直接たゞ一服の鎮痛薬であるばかりで、病人の長々のオモチャに徹するだけの戯作者魂が乏しかつた。
 徳田秋声の「縮図」は淡々と女の数奇な一生が描かれてゐる。その淡々さが神品だなどゝ、愚にもつかないことを云ふ。芸術は力の世界だ。淡々だの風格だのといふことによつて、対象にくひこむ深さが低ければ、文学の価値は低いのである。そして日本の
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