文人達は、対象にくひこむよりも、淡々とまとまる方が高いものだと考へ、さういふ淡々さの退屈千万な骨董性を弄んで、それが高級な文学だなどゝ思ひこんでゐた。淡々だの、退屈だの、面白くないといふことが、純粋な文学の境地だと思ひこんでゐたのである。
だから、文学は面白くない、退屈すぎる、もつと面白くなければならぬ、さう気がつくと、文学も読物も区別がつきやしない。読物も文学だと思ひこんでしまふ。
然り、文学はどんなに面白くても構はない。どれほどハランにとみ、手に汗をにぎらせ、溜息をもらさせても構はない。たゞ、文学は常に文学であり、読物は常に読物だ。この二つは根本的に違ひがハッキリしてゐる。
対象にくひこむことによつて、おのづからハランは起る筈だ、魂からのハランが。そのハランは、やつぱり病人以外には、用のないものであるかも知れぬ。
たゞ、淡々だの、枯淡なる風格だの、退屈だの、面白くない、といふこと自体に意味も高さもないことだけは、ハッキリ知ることが必要である。作家の肉体力はカゲロウの羽の如くに病み衰へても、作家精神といふものは常に最大の貪慾を失つてはならぬ。芸術の貪慾と放蕩の中で作家は自爆しなければならぬ。
小林秀雄は、作家は何を書いたか、といふことよりも、何を書かなかつたか、といふことの方に意味があるといふ。そんな馬鹿げた屁理窟があるものか。芸術作品といふものは、力の権化である。力自体の貪慾と放蕩の中で常に自爆しなければならないものだ。芸術作品が作家自身の創造であり、発見であるのは、かゝる自爆によつてゞある。作品は書かれたことにしか意味がない。
小林は骨董品をさがすやうに文学を探してゐる。そして、小さな掘出し物をして、むやみに理屈をつけすぎ、有難がりすぎてゐる。埃をかぶつて寝てゐる奴をひきだしてきて、修繕したり説明をつけて陳列する必要はないのである。西行だの実朝の歌など、君の解説ぬきで、手ぶらで、おつぽり出してみたまへ。何物でもないではないか。芸術は自在奔放なものだ。それ自体が力の権化で、解説ぬきで、横行闊歩してゐるものだ。
芸術は「通俗」であつてはならぬが、いかほど「俗悪」であつてもよい。人間自体が俗悪なものだからである。むしろ俗悪に徹することだ。素朴や静寂に徹するよりも、俗悪に徹することは、はるかに困難な大事業だ。そこには人の全心全霊のあらゆる力が賭けられるこ
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