作品は描かれた世界を突きぬけてゐる「傑作の条件」を具へることが出来なかつたのであらう。
むしろ晋が現れてこなければよかつたのだ。自伝風な要素を捨て純客観的に藤村一族を描いたなら、この作品は更に高度の芸術たり得たに相違ない。この作品には気品はあるが、香気を持つまでに至らず終つてしまつたのだ。
僕は前回の批評で、小説は作者の生きた生活に根ざすところがなくとも傑作たりうると述べた。それを今、ここで改めて思ひだしていたゞきたい。
僕はむしろ次のやうに言ひたいのだ。真の傑作は生身の作者から完全に離れなければ生れない、と。文学的真実は、結局、紙の上に於て、真実であるといふことだ。さうして我々人間は、紙の上の真実を、現実に比して否定しうるほど決して現実に通じてゐないのだ。人間はとかく過信しがちなほど、この現実と深い交渉をもつてゐない。むしろ迷路にゐるだけだ。
(四)[#「(四)」は縦中横] 文学の「楽しさ」と『フライムの子』
作者が興にまかせて筆を走らせるといふことも、時には傑れた文学を生みだすことになるやうだ。書きながら作者がすでに楽しく又面白くてたまらぬのだから、読者も亦面白か
前へ
次へ
全13ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング