作品は描かれた世界を突きぬけてゐる「傑作の条件」を具へることが出来なかつたのであらう。
むしろ晋が現れてこなければよかつたのだ。自伝風な要素を捨て純客観的に藤村一族を描いたなら、この作品は更に高度の芸術たり得たに相違ない。この作品には気品はあるが、香気を持つまでに至らず終つてしまつたのだ。
僕は前回の批評で、小説は作者の生きた生活に根ざすところがなくとも傑作たりうると述べた。それを今、ここで改めて思ひだしていたゞきたい。
僕はむしろ次のやうに言ひたいのだ。真の傑作は生身の作者から完全に離れなければ生れない、と。文学的真実は、結局、紙の上に於て、真実であるといふことだ。さうして我々人間は、紙の上の真実を、現実に比して否定しうるほど決して現実に通じてゐないのだ。人間はとかく過信しがちなほど、この現実と深い交渉をもつてゐない。むしろ迷路にゐるだけだ。
(四)[#「(四)」は縦中横] 文学の「楽しさ」と『フライムの子』
作者が興にまかせて筆を走らせるといふことも、時には傑れた文学を生みだすことになるやうだ。書きながら作者がすでに楽しく又面白くてたまらぬのだから、読者も亦面白からぬ筈はない。作者の二つの呼吸が高度の文学性に於ても尚ぴつたり合へば、かうした楽しい小説も、すでに傑れた文学である。たとへば尾崎士郎氏の『人生劇場』青春篇などは、この種類にあてはまるものであらう。
葉山嘉樹氏の『海と山と』も興にまかせて一気に書いたといふ風な物語りである。
畠山といふ甚だのんびりした文学青年が、マドロスにあこがれ、たうとう船に乗りこんでカルカッタまで航海にでる物語りだが、登場人物みなみな愛嬌のある善人ばかりで、肩のこるところが全くない。その代り純文学としては甚しく低調だ。一読肩が凝らないが、高度の文学性をも笑ひや楽しさを与へてくれるものではない。
従而《したがつて》、ユーモラスなこの物語りは、むしろ大衆文学に属するものだが、この小説はとにかくとして一般にこれと種類を同じくする楽しい小説が、楽しさの故に不当に低く評価され易いのは悲しむべきことである。楽しさとか面白さはそれ自体決して不純なものではない。深刻とか苦悶とか内省ばかりが純文学の対象になりうるわけではないのである。作家も読者も一般にこの種の楽しい小説を試み、又求める精神がすくないのは、思ふに日本的思考が現実的
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