》』はすでに新人といふ区別をつけて論ずべき作品ではない。最近の長篇小説といへば、一列一体に書きなぐり気分の多い濫作物の横行の中で、この作品は完璧の相を示して光り輝いてゐる。
 この小説は作者の自伝風のもので、作者自身らしい晋といふ少年を通じて、近江中の庄の豪家藤村家の人々が描かれてゐる。作中人物いづれも活写されざる者がない。
 然し乍ら、この作品の唯一の弱点は少年の世界といふものは、これほど完璧に描破されても、苦難にみちた大人達の心には、それほど深く喰ひこむ力がないといふ一事であらう。
 それゆえ、この小説の作中人物は、晋の印象を通じてのみ語られてゐる限り、人に迫る深さを持つことができないのだが、いつたん晋の世界を出外れた部分へくるとはじめて陸離たる光彩を放つ。即ち長男の重責と才能との不均衡のために、逃避難とひねくれた精神生活を植えつけられた藤村家の当主治右衛門、好人物で好色な二男辰二郎、傲岸不屈な末弟真吾、この兄弟の性格とその交渉は藤村商店といふ大機構をめぐつて特色深い人生図を展開する。
 青春を謳ふ代りに憎み、結婚初夜に、身体は買つたが精神上の結婚はせんと堂々花嫁に宣言する真吾の性格は、一見甚だ観念的で異国風なものに見えるが、治右衛門、辰二郎と並べて見ると、その外部的な表出はとにかくとして、日本の豪家の一族には、却つて甚だ有り易い型ではないかと思はれる。さうして、これら三兄弟の性格の関係自体がまた甚だしく日本的だ。我々が常に見馴れてゐるために、すぐれた作家の筆によつて描かれなければ、気付かず見逃し易いほど普通的な型なのである。すぐれた作家は常にかうして我々が見馴れすぎて不感症の世界から新鮮なものをもたらしてくれる。
 然し乍ら、この小説は完璧の相をもち、読むあひだは作中に人をひきこむ力を具へてをりながら、さて、読後ふりかへつてみる時には、まとまつて受ける感銘が稀薄なのだ。
 思ふにそれは、この小説に根柢的な分裂があるからだと思ふ。外的には完璧で破綻を示すところはないが、根柢に於て分裂があるのだ。それは、又、先にも述べたこの作品の唯一の弱点、所詮少年の世界は、大人の苦難に食ひこむ文学になり得ないといふあのこととも関聯してゐる。即ち、この小説の傑出した部分はいづれも晋少年と交渉のない場面のみなのであるが、作者の置く重心はむしろ常に晋にある。その分裂があるために、この
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