で観念性が尠《すくな》いせゐであるらしいが、大文学を生むための過程としてもこれの欠如は大きな障りになり易く、甚だ残念なことである。
さて、最後に『新潮』二月号所載の奈知夏樹氏の三百二十枚の力作『フライムの子』に一言ふれたい。この新人の力作は単行本として出版されたものではないが、最近の書き下し長篇中では相当読みごたへのある作品であつたにも拘らず、当時の世評が不当に苛酷であつたため、ここに取りあげてみたいのである。
この小説も一気に書きなぐつたものである。だが葉山氏の場合と違ひ、陰惨な、苦悶にみちた物語りだ。だから面白がつて書いてゐる作品ではない。その代り「書かずにゐられなくて」書いたものだ。あれもこれも書きたくて、筆が勝手に走りだしたやうな小説なのである。だから文章の字面が粗雑を極めてゐて、殆んど文章の体裁をなしてをらない箇所がある。一見悪文の見本なのである。
だが、一見粗雑を極めてゐる文章によつて語られてゐる各々の事柄は、いづれも天分ある人のすぐれた、洞察のみがなしうるもので光り輝く意味を持つてゐるのである、元来小説は綴方と異つて、如何に書くか、といふことよりも、何を書くか、といふことがより重大な意味をもつ、複雑無限な人生の事象の中から、狙ひをつけ、取りあげてくる事柄自体が、まづ小説の文章の価値を決定する。文章としての形や調子が揃つてゐても名文とは言へないのである。
『フライムの子』は綴方としては悪文だが、小説としては近来稀な名文だつた。文章の一句々々がすぐれた天分ある人の洞察によつてのみしか言ひ得ぬ意味をつたへてくれる。観念的ではあるが、その観念が作者の肉から生れてゐて、贋物と違ふ。小説の場合、文章を読んでその意味を読まぬのは不当だ。形を知つて精神を知らぬ者に文学は通じない。綴方としての文章の晦渋さに疲れてこの小説を投げだした人に、もう一度、精読をおすすめしたいのである。
底本:「坂口安吾全集 03」筑摩書房
1999(平成11)年3月20日初版第1刷発行
底本の親本:「徳島毎日新聞 第一三五七五号、第一三五七九号〜第一三五八一号」
1939(昭和14)年3月25日、29日〜31日
初出:「徳島毎日新聞 第一三五七五号、第一三五七九号〜第一三五八一号」
1939(昭和14)年3月25日、29日〜31日
入力:tatsuki
校正:no
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