私の名を呼ぶので――その口へ耳を寄せる時、殆んど死臭のやうな堪えがたい悪臭の漂ふのには無慙な感をいだかされた。死んでからの顔の方がはるかに安らかであつたのである。ポオの小説に The facts in the case of Mr. Valdemar といふ物語がある。ある男が、催眠術によつて人間の生命を保ちえないものかと考へて、瀕死の病人に催眠術をかける。丁度死んだと思ふ頃、呼びさまして話しかけてみると、自分はもう死んでゐると病人は言ふ、さうして断末魔よりも深い苦痛の声をもつて苦しみを訴へるのである。それからの連日二十四時間毎に呼びさまして話しかけると、その表情その声は一日は一日に凄惨を極め、遂ひに術者も見るに堪えがたい思ひとなつて術をとくのであるが、とたん肉体は忽然として消え失せ、世に堪えがたい悪臭を放つところの液体となつて床板の上に縮んでしまふ。――大体、こんな筋の話であつたと記憶してゐるが、私は長島の危篤の病床で、この物語を思ひ出してゐたのである。一つには長島もこの物語を読んでゐたからであつて、ある日私にそのことを物語つた記憶が残つてゐたからであらう。そのことと関係はないが、彼は私への形見にポオの全集とフアブルの昆虫記の決定版とを送るやうにと家族に言ひ残して死んだ。
 彼の病床での囈言《うわごと》は凄惨であつた。一見したところ、とりとめのない支離滅裂な叫びに思はれるのであるが、結局のところ、彼の宿命的な一生の間、このどたん場へまで追ひつめられてきた最後の一行ばかりを断片的に言ひ綴つてゐるのであるから、彼の精神史の動きを知る私には、正気のそれよりも激しい実感が分つたのである。
 私が、君のエスキス・スタンダアルはいいものであると割に簡単な気分で言つたところが、突然長島は狂暴な眼を輝やかして嘘だ嘘だと絶叫しはぢめた。そこで私が、斯ういふ君の最も本質に属するところの仕事に就て人の言葉を相手に嘘だの本当だのと喚いてみても仕様がないであらう、それよりも莫迦者の寛大さをもつて長閑《のどか》な道化役者の心をもつてきく方がいいらしいと言つたところが、彼は急に激しい落胆を表はして、でも俺はそれよりも弱い人間なんだと消然と呟いた。これは決して気が狂つてゐないと私は思つた。むしろ正気の人間よりも鋭敏である。私の場合で言ふと、私は酒に酔つたある瞬間に時々この状態の鋭敏さを持つことがある。狂人の全てが斯うではあるまいが、これが狂人なら狂人は恐るべき存在だと私は思つた。
 狂人のこの驚くべき鋭敏さには彼の父親が気付いてゐた。なぜなら、長島の父は、いはば長島の一生恐るべきライバルの一人であつて、彼の精神史は常に父を一人の敵として育つてゐたからだらうと思ふ。長島の父は政治家であるが、彼と性格が相似てゐる上に、腹と腹で睨み合つては病弱な長島のとうてい太刀打の出来難い線の太さと押しの強さがあるやうに考へられる。恐らく彼は父親に精神的に圧迫され通してゐたのだらうと思ふ。彼が危篤の病床で父親に叫んだ言葉は、「パパ俺は偉いのだ」といふ一言であつた。ところがパパは一言も答へなかつた。答へなかつたにも拘らず、彼は最後まで子供は決して気が狂つてはゐないと断言してゐた。ちなみに、彼の家族は皆彼は発狂したと信じてゐたのである。さうして、さう考へるのは決して無理ではなかつたのである。
 父対長島の場合のやうに、身を以て絶叫してゐるにも拘らず返答がないといふこと、これは同時に彼対友人、いな、彼対人生の関係でもあつた。併《しか》し人々は故意に彼を苦しめるために返答しなかつたわけではないだらうと思はれる。所詮、この男は、この悲惨な結果を生まざるを得ない宿命人であつたのだらう。
 長島は危篤の病床で私一人を残して家族に退席してもらつてから、私に死んでくれと言つた。私が生きてゐては死にきれないと言ふのである。さうして死んだらきつと私を呼ぶと言つた。死ぬまぎわには幽霊になつて現れるなぞとも言つたのである。さうして私に怖ろしくなつたらうと狂気の眼を輝やかして叫ぶので、私があたりまへだと言つたら、世にも無慙な落胆を表はしてそれつきりして沈黙してしまつた。
 併し、正直に白状すると、私はそれほど怖くはなかつたのである。彼はその悲惨な宿命として、彼の如何なる激しい意志をもつてしても到底私を怖がらしたり圧迫したりすることは出来ない因果な性格を持つてゐる。私は無神経なること白昼の蟇《がま》の如き冷然たる生物であつて、デリケートな彼はその点に於て最も敵対しがたいのである。それにも拘らず、彼は私のやうな鉄の意志、鉄の無神経をもつところの人間を相手として友達に選び、それに抵抗しつつも最も親しまざるを得ない悲劇的な性格を与へられてゐたのであらう。
 私は彼の生前によく彼に言ひ言ひしたのであるが、君は僕に
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