長島の死
坂口安吾

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)従而《したがって》

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(例)全部[#「全部」に傍点]
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 長島に就て書いてみたところが、忽ち百枚を書いたけれども、重要なことが沢山ぬけてゐるやうな気がして止してしまつた。長島は私の精神史の中では極めて特異な重大な役割を持つてゐるので、私の生きる限りは私の中に亡びることがないのである。従而《したがって》、今あわただしく長島の全てに就て書き尽すまでもなく、これからの生涯に私の書くところの所々に於て、陰となり流れとなつて書き尽されずには有り得ないであらう。今は簡単に長島の死に就て書くことにする。

 私の知つてゐるだけでも、長島は三度自殺を企てた。その都度、遺書、或ひは死に関する感想風のものを受けとるのは私の役目――全く役目のやうであつた――であつたし、同時にその家族に依頼を受けて、死に損つた長島と最初の話を交すのも私の役目であつた。考へてみると、実に根気よく自殺を企て、根気よく失敗したものだと思ふ。無論、酔狂や狂言の自殺ではなかつたのである。一度は信濃の山奥の宿で、これは首を吊つたのだが、縄が切れて、血を吐いて気を失つて倒れてゐるのを発見された。次には横須賀の旅籠《はたご》で、次には自宅で。これは致死量以上の劇薬を嚥みすぎて結局生き返つたのである。このほかにもやつてゐないとは言へない。一週間ばかりといふもの、連日つづけさまに死に就ての已に錯乱した感想を受けとつた記憶が二度ばかりあるが、その結果がどうなつたことやら私は忘れた。とにかく、毎年春になると一種の狂的な状態になるのである。これは如何ともなしがたい生理的な事柄であるから、仕方がなかつた。
 私は彼のやうに「追ひつめられた」男を想像によつてさへ知ることが出来ないやうに思ふ。その意味では、あの男の存在は私の想像力を超越した真に稀な現実であつた。尤も何事にさうまで「追ひつめられた」かといふと、さういふ私にもハッキリとは分らないが、恐らくあの男の関する限りの全ての内部的な外部的な諸関係に於て、その全部[#「全部」に傍点]に「追ひつめられて」ゐたのだらうと思ふ。たとひ恋をかちえても、名声をかちえても、産をなしても、恋を得たことによつて名声を得たことによつて一人あくことなく追ひつめられずには止まないたちの、宿命として何事によらず追ひつめられるたちの男であつたのだらうと考へてゐる。彼の死にあひ、さて振返つてみると、実に凄惨な男であつたと言はざるを得ない。彼ほど死を怖れた人間も尠《すくな》いのであらう。彼の自殺といへども所詮は生きたいためであつた。彼もそれを百も承知してゐたが、彼の生涯を覆ふた一種奇怪なポーズは、彼を自殺へ走らせずにはやまなかつた。全く、彼の奇怪なポーズは私の想像能力をも超えてゐるかに思はれる。殆んど現実の凡ゆる解釈を飛びこえて、不可解な宿命へまで結びついてゐるとしか考へられない。
 丁度このクリスマスの前夜に、また長島の危篤の電報を受けとつた。ところが、十二月の初めに、四五通のやや錯乱した手紙とここへ載せてある「エスキス・スタンダアル」の原稿とを受けとつてゐたので、又自殺するのだらうといふ予感を懐いてゐた。馴れてゐるので驚きも慌てもする筈はない。さりとてこの自殺は私の力でどうすることもできないことが分つてゐるので、ほつたらかしておいたのである。寧ろ、これまでの例で言ふと、なまじひに留めだてに類することをしたばかりに却つて死に急がせる結果をまねいたこともあるので、私としては、ほつたらかしておくほかに手段がなかつたのである。
 電報によつて赴いてみると、今度は自殺ではなかつた。脳炎といふ病気であつた。脳膜炎どころの話ではなく、膜を通り越して完全に脳そのものをやられてゐるのだといふ。むろん完全な発狂である。治つても白痴になるばかりだといふ。昏睡におちてゐた。
 医者はこの昏睡のまま死ぬであらうと言つてゐたが、再び眼を覚した。のみならず、眼を覚すこと十二時間の後、再び昏酔におち、今度こそそのまま死が来るだらうと予定されてゐるのに丁度十二時間の昏睡ののち、またまた覚めた。斯うして、生きることが已に狂的な不思議な状態が一週間ほどつづいて、一月元旦、正しく言ふと元旦をすぎること五分ののち昏睡のまま永眠した。
 この昏睡の間は体温三十六度であるが、覚めたときは四十一度になつてゐる。その体温表は、丁度過ぐる大震災の地震計を見るやうなものである。生きながら、その顔は死の相であつたし、視覚も触覚も聴覚も、或る時は殆んど失はれてゐた。腹から下は死の冷めたさであつた。頻きりに苦痛を訴へて見るに忍びない姿であつたが、ことに私は、彼と話を交すために――彼は頻りに
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